本の書き込みと所有者名
今年は例年になく寒い冬なのか、それとも風邪気味だからそう感じるのかと。11月半ばなのに、夜は冷え込んでなかなか寝つかれない。
増坊は元から低血圧低体温で、冬は足が冷えて電気アンカが欠かせない体質なのだが、家の片づけで夏の間に冬の夜具はどこかに収納ってしまったらしく、すぐみつからない。仕方なく厚手の靴下をはいて、厚い布団をかけて眠るのだが、寒くてなかなか寝つかれず深くは眠れない。
♪寝たかと思うと寝たかと思うとまたも冷気にからかわれて、とは、高田渡の唄「生活の柄」の一節だが、浮浪者のままではないのだが、まさにうとうとすると吹き込む隙間風が寒くて起こされてしまうのである。
早く家が暖かい家が完成すれば解決する問題なのだが、それまでに肺炎でくたばってしまうかもしれず、何か当面の対策を考えねばならない。何しろ冬はこれからが本番なのだ。
先に線引き本の下線を消すのに何時間もかかって苦労した話を書いた。実は、それ以後も、アマゾンで売れた本で、見落としていた線引きと書き込みがあることに本が売れて発送の際に気がついて、結局、お客にそのことを説明してキャンセルとなったことがあった。
以前も書いたことだが、出品の際には気がつかず、「書き込みのない並上の美本」などと説明し、それで売れてから再度細かくチェックすると、不思議に何ヶ所も線引きや書き込みが見つかることがよくある。今回の本のは、鉛筆ではなく油性マジックで引かれて、消しゴムで消せるものではなくかったので、全額返金の上、後ほど切手を送り丁重にお詫びした。自分の目はもうダメかもしれない。いったい何やってんだと呆れ果てる。
そこで、また今一度本に書き込みをする行為について考えてみたい。題して「本は誰のものか」。
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by masdart.corp
| 2007-11-17 21:43
| 本・古本
いとうたかおワンマンライブat国立・地球屋
今、国立から帰ってきた。本当の「うた」を聞いて来た。深い余韻と感動でこれを記す。
いとうたかおは予想していたよりもはるかに素晴らしいシンガーだった。
会場であるライブハウス地球屋は、国立の学園通りを駅を背に歩いて5分ほどなのだが、時間を確認しないで飯田橋から急いで駆けつけたら、7時に着いてしまい、客はまだ誰も来てなかった。
で、ライブが始まったのは、8時半。待ちくたびれてすっかり出来上がってしまった。しかし、客は結局20名そこらだっただろうか。今回、東京は何ヶ所もライブハウスをツアーしているとのことで、ファンが分散したのかもしれないが、やや意外で残念な客の入りだった。
しかし、そんなことはいっさい気にすることもなく、いつものように淡々とギターを手にし唄い出したいとうたかおは、間に休憩を挟んだものの、終わったのは11時で、アンコールの二曲も入れて実に約二時間、ほぼ立ちっぱなしで、時に静かに時に激しく、ギターを奏で後半はTシャツ一枚となり汗を拭いながらの堂々たる熱演だった。今晩は、本当の「うた」を久々に聴いたとの思いがある。
先に、彼に関し、ギターも歌も取り立てて巧いわけではないなどと失礼なことを書いた。何となく、昔から変わらないイメージの人なので、メガネでノッポという線の細い、軽い先入観があったのだ。しかし、実際に目の当たりに見た、いとうたかおは、どっこい伸びのある声はよく出ていて、ギターも抜群に達者で、ホルダーにつけたハーモニカも巧く、実に堂に入っていた。二時間のライブをたった一人でこなす圧倒的パワーと存在感に感心、感嘆したというのが正直なところだ。
考えてみると、プロとして約40年近く1人で唄い続けている人なのだ。それだけの「実力」がなくてどうしてやっていけよう。曲目は昔の曲から最近のものまで、春一番などて聞き覚えのあるものも多いのだが、今まで彼の熱心なファンではなかったので、全部の曲目は紹介できない。が、アンコールで、椅子に腰掛けしみじみ唄った、彼の師匠でもある故高田渡の曲「風」で、改めて彼は渡の志を継ぐ、本当の唄をうたっていく人なのだと深く思い至った。
それにしても彼は若々しい。1951年の生まれなのだから、もう高田渡が死んだ歳になろうとするのに、まさに現役であり、些かも枯れたところは微塵もなくその安定感は抜群だった。日本のフォークシンガーたちは皆達者で元気な人たちが多いが、その中でもいとうたかおは今もっとも油が乗ってると思えた。いくつも年下である自分はもっと見習わなくてはと元気をもらった気がしている。
昨今、世の中にはキャッチなメロディーとポップな歌詞で、人の心のうわっつらを軽く撫でてはすぐに通り過ぎてしまう音楽が溢れている。そのときはちょっと耳に残ってもすぐに消えてあとかたも残らない。いとうたかおの音楽とはそれとは反対に、どの曲もどこか寂しげで重く、しかも長いので最初はとっつきにくいのだが、聴きこむうちに心の一番深い部分に染み込んできて深い余韻をもたらす。
もとより何が良い音楽とか悪い音楽とかそもそも関係ないが、いとうたかおの音楽はもっともっと多くの人に聴きこまれてほしいと願う。彼にはそれだけの価値がある。日本のフォークが生まれて約半世紀近くたち、その到達点の一つの形がここにあると思った。いとうたかおの音楽は人の心のものすごく深いところを流れている。
★デジカメで写真を撮ろうにも誰一人フラッシュたいて撮る人はなく、憚れるほど荘厳な雰囲気でとても静かでしたので、今回ろくな写真がとれませんでした。いとうたかおらしいと思いました。
今いちばん聴きたいシンガー・いとうたかおさん
風邪はなかなかすっきりしない。今日も午後になると熱が出るのか、鼻水に寒気がして頭が鈍く重くなり起きていられず夕方までまた仮眠してしまった。この忙しいときに困った困った。
明日はギンレイへ行ってその足で国立で降りて、7時からライブハウス・地球屋で彼のライブがあるのだ。これまで何回も春一番をはじめ、フェスティバル的会場では見ている人だが、単独でのステージはこれ初めてで、ふだんは、名古屋~関西圏を中心に活動している彼を近所なのに見逃すわけにはいかないのである。
いとうたかお(以下呼び捨てにして申し訳ない)、といっても岡林や高田渡たちに比べると、知名度はもう一つで、世間的にはあまりご存知ないかもしれない。しかし、1970年代頭から活動を開始しているものすごく古い人で、名曲「あしたはきっと」の作者としても知られている。
増坊が彼の名を知ったのは、70年代の春一番コンサートのライブ盤からで、その他、オムニバス「1974 HOBO'S CONCERTS」などでも、常に、日本のフォークシーンの常連として登場してくるシンガーの一人だった。1972年の春一では、彼の「あしたはきっと」は様々なミュージシャンによって一体何度演奏されたのだろうか。また、実際に70年代後期の天王寺野音でも彼を見ているはずなのだが、いつも印象に薄く、“常にいるけれど、いつもあまり記憶に残らない人”であった。
しかし、今年の春一番で、二日目のトリとして登場した彼のステージで初めてじっくり彼の唄を聴いて、ようやくその魅力がわかってきた。失礼を承知で書くが、決して歌がうまい人ではない。ギターだってイサトさんのようなテクニックはないし、加川良や大塚まさじのような誰もが思い浮かべるヒット曲もない。また、高田渡のような唯一無比の強烈な存在感もない。ブルースハープの名手であるが、松田ARIちゃんのようにそれだけで注目を集めるほどではない。
しかし、それこそがいとうたかおであり、他の強烈な個性のミュージシャンたちの間で時に埋もれながらも何十年もの間、彼は彼自身のうたを静かに唄い続けてきた。決して人目を引くような、聴衆を驚かさせるような強い個性はないが、彼自身でしか出せない燻し銀のような味わいの唄は、共にその年月を重ねたこの身にしみじみと染み込んで来た。一言でいうと、彼の唄はすごく深い。増坊は、若いときはそれが分らなかった。この世には年月を経て初めて見えてくる世界もあるのである。
このところ、よく唄とは何かとよく考える。そして唄い続けることの大変さと大切さを思うとき、いとうたかおという人が健在でいることの有難さをつくづく思うのだ。今の自分にとって、彼は今の岡林信康よりも数段重要で価値ある大切なシンガーなのである。
パソコン不具合の原因は
このところの疲れが溜まっているせいか、今日は情けないことにまた風邪気味で、寒気がして鼻水が出て、微熱でもあるのか、ふらふらしている。仕方なく、ビタミン剤飲んで午後から寝てしまった。これ以上悪化させて本格的な風邪にならないよう、今一番忙しいところなので大事をとって今晩は猫でも抱いて早く寝よう。
先に、パソコンの入力がおかしくなったという話を書いた。キーボードの押すキーと、表示される文字が違ってしまう。不思議なことに途中で、急に直ったり、打ってる途中でまた狂ったりする。そこでさすがに青くなって、いかれてしまったかとパソコンのガイド本を繰って文字入力の仕方を確認して再度設定しなおした。
わかったことは、いつの間にか、ローマ字入力に設定されていて、どうりで押すキーと出る文字が違ってしまうのも当然だったのである。そう、増坊は、かな文字入力でこれを書いている。
世間一般では、普通はローマ字入力が主流らしく、自分以外に「かな」で入力している人は会ったことがない。でも、ワープロ時代からずっと「かな」で直接入力してきているし、今さらローマ字などは、逆立ちしたって不可能なのだ。なぜなら、増坊はローマ字表記ができないのである。
小学校の頃、不登校でろくにローマ字での拗音や詰まる音についてきちんと勉強する機会がなかったため、読むのは何とかなっても、ちゃ、りゃ、ぴゃ、びっくり、ぱっちり、などは一体どう表記するのか今もってわからない。
例えば、ミシシッピーとか、マチャピチュ遺跡などの単語を書こうとした場合、はなからお手上げであり、世間の人はいったいどうやってこんな難しい言葉をローマ字で表示できるか「ちょびっと」でも教えてもらいたいぐらいなのだ。
何かを書こうとするのに、まずローマ字に置き換えることは、一度さらに思考を使うことであり、一つのことだってうまくできやしない自分のオツムでは、神業のような気がする。第一、かなで一文字で打ったほうが、常に二文字打たねばならないローマ字入力より早く合理的ではないか。
それでもローマ字がこれだけ一般的となったのには、何かそれなりの理由や利点があるのだろうが、何十年も慣れし親しんで来たことだしおそらく生涯これからもかな入力は続けていくと思える。一番良いのは音声での直接入力かもしれないが。
ところで、なぜ突然入力方法が狂ったのか、思い当たる原因は一つだけある。先日、子猫の足袋次郎くんが背中に飛び乗ったまま、二階まで来て、増坊がパソコンに向かっているのを肩越しに見ていたのだが、何を考えたのか突然机にジャンプして、ドーンとキーボードの上に飛び降りたのだ。それ以来、入力がおかしくなった。
昔、ビデオデッキに子猫が乗って、中にオシッコされて修理に出したこともある。精密機械にはネコ絶対禁止なのである。
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by masdart.corp
| 2007-11-14 21:20
| 閑話休題
私的20年前の話・おしまい
というわけで、またモノが増えてしまった。今、毎日必死に一日も早くボロ家を壊すべく、片付けに専念している最中なのにである。まったく皮肉というべきか、よりによって何故今この時なのかという思いもあるが、これもまた運命の巡り合わせであり、20年前の自分と向き合えて良かったと思える。
確か、町田康氏が以前、雑誌のコラムに書いていたことだったが、似たような話を思い出した。詳しい点は忘れたが、彼が若い頃、無名時代に住んでいたアパートへと、取材か何かで10年ぶり?ぐらいに訪れた。そしたら驚くべきことにアパートは廃墟と化していたものの残っていて、しかも彼の部屋は、彼が出て以降、誰も新たに入らなかったらしく、彼が出たときのまま、当時のままで残っていたという。彼がその部屋を「夜逃げ」したのか知らないが、昔の自分の持ち物も生活道具も一式そっくり残っていて、呆然としたという話だった。
町田氏は、元々バンクな人だから、感傷的筆致にはならず、結局、びっくりしたものの、何一つその部屋から持ち帰ることはなく、そこを去ったと結んでいたように記憶する。
「過去」とは本来そう対峙すべきものかもしれない。偶然タイムマシン的に、あるいはタイムカプセルを開けたように、昔の自分と向き合う機会があったとしても、しょせん、過去は過去に過ぎず、記憶の中だけで懐かしむ程度に留めておくべきかもしれない。
しかし、増坊はかつての自分のものは、持ち帰れるだけ持ち帰ってきた。今回出てきたもので一番多いのは、マンガ雑誌を含めた種種雑多な雑誌類なのだが、自分で買い求めたりしたものもあるが、その大半はかつて何度か仕事した関連で送られた来た「掲載誌」も多く、何回か仕事をすると以降定期的に送られてきたから、今となってはどの号に何を書いたのか、どこに載っているのか載っていないのかも定かでなく、もはや一冊づつ確認している時間もなく、マンガ類は彼女のところに残して多くの雑誌はともかく持ち帰ることにした。
また、古紙として資源ゴミ回収の日も過ぎてしまい、引越し当日までにもはやなく、ゴミとしても部屋に残すわけにもいかず、一切合財積めるだけ積んだが、結局、ビデオテープ類は、ベータもVHSも乗り切れず、かなり置いてきてしまった。
ビデオは、テレビで放映した映画や、「ベスト・ヒット・USA」、「ポッパーズ・MTV」などの音楽番組が多いと思うから、当時のCMや番組自体は懐かしいだろうが、今ではそれほど重要には思えない。もし、時間ができたら見返したいと思う程度だから未練はない。
それよりもやはり80年代末の雑誌や新聞の切り抜き、集めたオーディオ類のカタログなどの方になんとも説明できない感慨が沸いてくる。自分たちがそこにいくらか関係もしていた懐かしさより、いったいこの頃、自分は何を考えていたのだろうかと、呆れ果てるほどの愚かさに悔やむような気持ちが強い。
先に「哀しみに似た感情に囚われている」と書いた。この“哀しみ”は、もう戻らない過ぎた若き日々に対する懐かしさ的感傷ではなく、「昔はものを思わざりけり」といった普遍的嘆息なのかもしれない。
というわけで、またモノが増えたが、それは、ライトバン一杯分にすぎない。その「過去」も既に借りてる倉庫に紐で括ってとりあえず仕舞い込んだ。さあ、気を取り直して家の片付けにまた取り掛かろう。大切なのは過去ではなくこれから来る未来なのだから。