墓石巡りを駆け足で
台風だか何だか知らないがまた天気がずっと悪いようだ。天気と同じく体調もまだすっきりしないが、今度は親父が寝込んでしまったし、今週自分が寝ていた間にやるべき用事がずいぶん溜まってしまった。部屋もものすごい有様だし見たい映画もあるのだが、今日は気合を入れて家のことや溜まった連絡用件をまずは片付けたいと思う。
雑司が谷墓地のことを書いたのだが、人類にとって「墓」とは実に面白いものだと思う。動物は死者を弔らわないし、親愛なるものの死に哀しみ抱く?類人猿だって後々まで供養などしないだろう。死によって本来そこで終わった「生」をあたかも延長させていくような行為が「墓」なのだと気がつく。しかもそれは残された者のためのものなのだ。
個人的には墓も戒名も全く不要無用のものと信じるが、人は先祖があるからゆえ自分は今ここにいるのであり、そのことを確認するためにも墓所は必要欠かすべからざるものなのかもしれない。間もなく秋のお彼岸であるが、人は他者の死によってしか自らの生を確認できない動物なのだから墓とは死者のためというよりも今の人たちにとって必要な装置なのだ。存在のないもの、なくなってしまったものを形として残し現すイコンとして墓は存在している。墓巡りをしていると骨がそこに眠るかは二義的なもののように思えてきた。
★文豪
永井荷風(中)と一族の墓。
★
竹久夢二の墓。 黒御影石?にシンプルに 竹久夢二を埋む とだけある。死者のイメージにマッチした好例。
★天才型放蕩詩人
サトウハチローの墓。佐藤愛子による一族の伝記を読んでここを訪れるとさらに感慨が湧くこと間違いない。碑文のように墓石には彼自身の筆文字で「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」と彫られている。
この墓地にはこの他まだまだ沢山の有名無名を問わず多くの文人や俳優、演劇人、学者、著名人が眠っている。霊園マップには記されていない人とも偶然出会うこともあり、それもまた墓地歩きの楽しみであろう。
他の墓地も含めて後日時間あらばこうした報告は続けたいと考えている。最後に私的に最も気に入った墓を一つだけ挙げておこう。戦前からのプロレタリア芸術家であり、戦後も多彩な活動で知られた天才マルチアーチスト
村山知義の墓である。
★小体ながらシンプルかつモダンである。tomさんのワークスに関してもいつの日か何か書いてみたいと思っているが・・・・。