春一番の名物男オカモトは死んだのか、生きているのか・続き
大阪で毎年5月の連休に開催されるフォークソングの一大イベント「春一番コンサート」は、古くは、天王寺公園の野音で1971年に始まり、以降70年代末までの9年間、9回続き、いったんは終了したものの、95年から会場を変えて復活し、以降連続13回、一昨年から「祝・春一番」と頭に「祝」が付くようになったが、今年も大阪郊外千里近くの緑地公園内の野外音楽堂で多くの観客、ミュージシャンが一堂に会して行われた。
その四半世紀をゆうに超す年月の間、多くの出演者が登場し、沢山の観客がそのコンサートに足を運んだわけだが、変わらぬ主催者、福岡風太と阿部ちゃんの両人を除けば、ずっと毎回出続けているのは、中川五郎、加川良、友部正人、シバたちもはや10名足らずだと思うし、彼らに並ぶ古顔は、このオカモトではないだろうか。
71年の第1回については、音源も資料もなくわからないが、少なくとも72年の第2回から顔を出している常連である。そして増坊は77年に初めてそのコンサートを観に行き、オカモトを目撃しているわけだから、知ってから30年、その以前の春一との繋がりで言えば、彼は約40年近く前からこのコンサートに関わっていることになる。だが、普段はいったい何をしている人なのか、どこに住んでいるのかおそらく誰も知らないのではないかと思う。
わかっていることは、オカモトという苗字だけで、会場ではたいがい「オカモト!」と呼び捨てにされたり、風太たちは、「オカモト君」と呼び、常連客は「おかもっちゃん」と親愛の情を込めて呼ぶ。今、ずっと「オカモト」とカタカナで書いているのは、正しくは岡本、もしくは岡元と表記すべきなのだろうが、耳でしか聞いたことがなく、それが本名なのかも定かでなく、春一番の名物男オカモトに関しては未だ一切が謎である。
増坊が十代末の頃、初めて会ったときはずいぶん柄の悪いヨッパライのオッサンだと敬遠したものだったが、今考えると彼もまた当時はたぶん20代の若者だったに違いない。子供のときは、年上の人は皆誰もかなり大人に見えるものだから。
ただ推測するに、70年代の春一番の会場であった天王寺野音は、西成とは道を1本挟んだところにあったから、東京で言えば、山谷にあたるドヤ街がすぐそばにあり、酔っ払った日雇い労務者、フーテン、ヒッピーの類が常に会場にたむろしていたので、オカモトもそうした仲間の一人としてよく会場に来ていたのだろう。
しかし、場所を大阪郊外に変えて、天王寺から遠く離れたところで開催された新しい春一番にまさかまたオカモトが来ているとは全く予想もしないことだった。しかも彼がすごいところは、基本的に音楽やミュージシャンには関心がなく、ただひたすら観客の前で自らが目立ちたいと一人大騒ぎをするというそのスタンスを全く変えていなかったことだ。長くこのコンサートに通っているといつしか会場全体が顔見知りとなって親睦感からいやでも大人しくなってしまいそうなのに、72年からやっていることに全く変わりも進歩もない。酔っ払って大声で騒ぎポーズをとって目立とうとしているだけだ。ある意味でオカモトがいることが、ドリフに高木ブーがいたように、不要ゆえに価値があることとしてこのコンサートの確かなアクセントになっていたことに今気がつく。
ところが、そんな春一番の名物男オカモトは今年は一日も会場に顔を出さなかったのである。増坊の友人となった春一仲間の間では、今日こそはオカモトさんが来るかと心待ちにしていたのにだ。どこから来るのか知らないが、彼は知る限りたいてい4日間のうち、2日程度はふらっと来ていた。たぶん毎年最低でも1日は常に顔を出していたのではないか。
阿部ちゃんに至っては、「オカモト君が来るか来ないかで、コンサートの出来が測れる、俺にとって言わばバロメーターのようなものなんや」と言うぐらい彼を買っていたのだ。名物男がいない春一番はやはり高木ブーを欠いたドリフのように何か物足りなくも感じたが、本当にいったいどうしてしまったのか。たぶんまだ60歳にもなっていないと思うが、アル中気味の人だったからついにくたばったのかもしれない。
だが、こんな情報がある。若手ミュージシャン岡大介が、昨年の8月、西成の釜ヶ崎の夏祭りでの特設野外ステージに立ったとき、目の前にそのオカモトが居て、やはり酔っては騒いでいたと言うのである。ということは推測したとおり、彼は西成のドヤ街の住人らしい。
岡君は今年もまた大阪へ行き、ちょうど今日あたり、その西成で演奏したはずだ。だからメールで、オカモトがその辺にいないか、注意して見てきて、と頼んであるので帰ったら報告があるはずだ。そこでもいなくて、来年の春一番が開催されたとき、もう現れなければ、実に残念だがあの名物男もついに死んだのかと考えざるえないだろう。良い報告があればまたお知らせしたいが・・・・。