死刑制度について思うことを少し・前
これはまだ考えがよくまとまらず、書くべきかずっと悩んでいることなのだけれど、先日、あの宮崎勤に死刑が執行されたこともあり、法の名の下に人を殺すことについてやはりふれないわけにはいかないと思った。異論はあるだろうが、まずはお読み頂けたらと願う。
日本人の八割、もしくは九割は死刑制度に賛成しているのだそうだが、増坊は絶対反対である。死刑というのは殺人犯、しかも通例複数の人を殺害した者に下される刑であるわけだが、人として生きていく上でなぜ“絶対やってはならないこと”をしてしまった者に同じ絶対やってはならないことを法の名の下に執行するのかがよくわからない。
人の命は犯人の死によって、つまり命は命で償われるのだろうか。犯人を殺したって殺された者は生き返らない。しかし残された被害者遺族としては犯人を憎み、殺したいと願うだろう。その気持ちはよくわかる。ということは私刑は現代社会では許されることではないから、法律が代わって復讐する仕返しだという意味なのだろうか。
死刑制度があることが犯罪抑止に役立っているという意見は今日ではもはや全く無意味となっていることは言うまでもない。なぜなら昨今の「殺す相手は誰でもよかった」という連続通り魔事件の犯人の場合は、自ら自殺願望があり、死ぬ前にでかいことをやって名を残したいとか、社会に対して復讐してやりたいと考え、その刃が不特定多数の人に向かうのだから、死刑になりたい犯人にとってはこの制度自体が事件の温床にさえなっている。
また、死刑になりたくない者だって、犯罪を起こすときはそこにやむにやまれぬ事情や衝動的、突発的感情の爆発などがあり、後のことなど考えずに行動にでたのが殺人となるわけで、果たして死刑を意識し覚悟の上で事件など起こすだろうか。「死刑」というのは改正道路交通法以降の運転する人の飲酒とは違うのである。本当に抑止力になっているのか。
「死」についてずっと考えてきて、一つだけわかってきたことは、死とは絶対に取り返しのつかないことであり、その人にとっての確実に「終わり」だということだ。だから自殺も含めて殺人はなぜ許されないかと言えば、命というかけがえのないものを一方的、人為的に奪ってはならないということであり、それは不可逆的にとりかえしがつかないからにほかならない。
そのとりかえしのつかないことをしてしまった犯人を、日本の社会は法の名の下でとりかえしつかないことに処していく。それがどうにも納得できない。実はそれが目には目をの仕返し、報復だと言うならば、江戸自時代や近世の西欧のように磔や引き回しにしたうえ公開処刑にすれば少しは殺人の抑止力となるのではないか。
死刑の利点というか、良いことがあるとしたら、殺された側の遺族感情としては、犯人が生きていることは絶対許し難いことだから死刑となれば事件はとりあえず終わりにできることだろう。犯人が生きている間は事件は永遠に終わらなく苦しい日々が続くだけだからだ。死刑の役割とはそのためにあるのだろうか。
先に鳩山法相のことを死神だと揶揄した某新聞のコラムニストが批判されていたが、問題とすべきは死刑制度自体であり、そのシステムが現今存在する限り、その執行を批判するのは矛先をまったく間違えている。ただ、個人的には粛々と執行にサインしていく人とは絶対に友達になりたくないし、これが正義だと信じているその臆面のない顔には嫌悪感さえ覚えてしまう。