「死」が身近になってきて
このところ「死」についてずっと考えている。
人は生まれたときから死に向かってひたすら突き進んでいるわけだから、歳をとることは即ち死に近づくことであるのは言うまでもない。が、昨年あたりから近辺に死の報が相次いで、今や死は身近に、いや間近になってきたという感が強くしている。
親たちの世代の死ならもはや70代から80代であり、こちらが50ともなれば当然過ぎるぐらい当然で自然の成り行きだと理解もできよう。しかし、同世代だったり、年下の友人の死であるといやでも自分ごととして考えないわけにはいかない。まして先の交通事故のようにこちら側が相手を死に至らしめる可能性だってあるのだから過失であろうとなかろうと被害者、加害者を問わず実は死とは本当は年齢など関係なく常に身近に存在していたのだと気がついた。今や死は我がことである。
それにしても若いとき、学生時代などは死も老いも全くの他人事で、見知らぬ遠い国、いや別世界の話のように思えていた。本の中の物語や新聞の活字では知っていても自分ごととは考えられずにピンと来ないものだった。ただ、深夜など寝つかれないときはふと自分もやがては死んでこの世からいなくなってしまうことに思い至り、その恐怖に駆られたことも少なくない。だが朝になればそんなことはすぐに忘れて自分なりの青春を無為か有意義かはともかく消費していたのであろう。
そして今、死についてどう思うかというと、若いときほど怖くもないし、今はまだ死にたくはないし死ぬわけにはいかないが、そのときが来るならばいつ死んでもいいような気がしている。自分でもその心境には不思議な気もするが、理由は簡単で、事故に遇わせた女児が緊急開頭手術のあと、今日明日が山場だというとき、集中治療室の前の廊下で「彼女に代わって私の命を奪ってください」と神に祈ったからだ。償いという気持ちではない。もう自分は十分好き勝手に生きてきたし、先も見えているが、その子はまだ10歳にもならず死んでいこうとしている。ならば死ぬべきは自分であり、死なねばならないならば死のうと決意したからだ。
そのときの強い気持ちはもうだいぶ薄くなってしまったが、どうしようもない自分が死ぬのは当然だという気持ちはまだ残っている。自殺は怖いししたくもないが、だから天命として死が来るならばそれもまた仕方ないこととして受け入れる覚悟はできている(と思う)。