あれから間もなく一ヶ月
梅雨の中休みで、日中は陽射しが強くじっとしていても汗ばむ陽気だが、夜になるとひんやりしてきて少し強い風が吹き、昼間の格好では肌寒いほどだ。6月も半ば、今の季節とはこんなものなのだろうか。
今日はまた友人を招いて庭木の剪定の続きと庭周りのガラクタを片付けて一日が終わってしまった。終えてその友人とゆっくり酒を呑み、久しぶりの感じでとりとめのない話をし、これからのことを語り合った。
あの事故以来昨日でちょうど四週目となる。まだ一ヶ月は経たないが現在の状況を知る限り報告する義務があると思った。
大変有難いことに皆様が共に祈って頂いたその願いが伝わったおかげさまで、被害者である女児はこのところ週末には仮退院なのか一時帰宅なのか、自宅に戻り家族と一緒に過ごせるところまで回復したようだ。と、推察で書くのは、詳しいことは直接聞いていないし、隣近所の人からまた聞きで様子を窺い知るしかないのだが、どうやら仮でも自宅に帰れるところまで良くなってきたらしい。贖罪感はなくなりはしないが、ほっとした感じはいよいよ増してきている。繰り返しになるが本当に読者の皆さんのおかげさまでここまで良くなったのだと改めて感謝したい。
しかし、その子は完全に元通りに戻れるわけではなく、今月末に再手術をして現在はまだ頭に穴が開いている状態のところにセラミックの蓋をして、その傷が癒えてからようやく本当の退院となるらしい。そして一応事故の傷は治ったとしても以降も一生てんかんの薬は飲まなくてはならないそうだし、また成長した時、16歳の頃には再度その「蓋」の部分を交換する手術をすることになるのだと聞く。幸いのところ現在の時点でははっきりわかる後遺障害は出ていないが、今後も何が起きたとしても加害者としての責はこちらが負う義務がこれからも続いていく。そしてそのてんかんの薬にはかなりのリスクも伴うのだそうだ。
そうした「将来」について考えてしまうとご両親でなくとも憂鬱になってしまうが、先のことをあれこれ心配しても仕方ないし、今は薬も医学も日進月歩で新たに進んでいるわけで、今を基準にしてあれこれ将来について悩むより希望的、楽観的な方に考えていったほうが前向きだと多くの方からアドバイスを受けた。
こんな事件、事故を起こして、もし自分がたった一人であったら、その不安と重責できっと心労と苦悩のあまり病気になるか発狂するか自殺さえ考えていたかもしれない。だが幸いのこと、こうしたブログという場があり、多くの見ず知らずでの読者や友人知人の方々から暖かい励ましと応援の声が寄せられ、どれだけ救われたかわからない。本当に有難く思うし、自分はひとりで生きていないのだと大いに力づけられた。
翻って秋葉原の無差別通り魔事件の犯人を思うと、絶対に同情はできないもののつくづく哀れなほどバカな奴だと憐れみを覚える。逐一事件に至る状況を掲示板に書き込んで、どこかの誰かがそれを読んでくれることを願い、そしてその誰かが事件を止めてくれたらと願う甘えたメンタリティに心底呆れ果て憤りさえ覚える。自分の場合、正直なところこれほど多くの方が真剣に読んでくれているとは、そして暖かいご声援まで頂けるとはそれまで常に反応がないブログゆえ思いもしていなかった。
今自分自身が不慮であろうとも事故を起こし加害者の立場となって思うのだが、この社会においては勝ち組の人などほんの一握りであり、ほとんどの人、仮に九割方は誰もが負け組みなのである。そして人は無意識や偶然であろうとも人を傷つけ、また互いに傷つけあい望まなくとも加害者になることもあるのだ。残念だがそれが人生というもの真実であり、不条理であろうともそれを踏まえ覚悟して生きていかねばならない。
誰もが明るく楽しく健康で毎日愉快に生きていけたらどんなに素晴らしいだろう。生活は辛く惨めで不安で苦しいのはお前だけじゃない。もしそう感じたとしてしても他人の幸せを奪う権利はお前にはない。人は実は皆、そんなに幸せではない。誰もがそれぞれの地獄を抱えて必死に生きている。だからこそ当たり前の平穏な幸せを願っている。人生は残念だがそもそも不公平なものなのだ。そして本当に満ち足りた幸せな人などもこの世にはいない。だからこそ人はその幸せを願い日々努力している。だからこそ人はお互い助け合わねばならない。
だからこそ 自ら望んで加害者になってはならない。望まなくとも加害者になることも起きるのが人の世なのだ。これ以上もう人を傷つけ哀しませることがないよう心して生きていきたいと今の自分は願っている。そして繰り返しになるが、人のために生きて生きたい。J・レノンの歌ではないが心からそう願っている。