CD“老人は国会突入を目指す”発売記念ライブ 1/27日於京都拾得 日本のフォークソングの歴史を辿るとき、その黎明期の舞台は東京ではなく大阪や京都など関西であることは間近いないだろう。
なぜなら、初期のスターたち、高石友也や岡林信康がそもそも関西の人であり、最初の爆発的ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」を歌ったフォークルも含めて、当初彼らは一括してアングラ、つまり今で言うインディーズ高石事務所(URC)に所属しており、そうした土壌、「関西フォーク」の地こそ当時のフォークソングのメッカであった。
だから、高田渡も京都へと向かったわけで、今日では歴史的なコンサートである初期のフォークキャンプやフォークジャンボリーなどどれも関西の地で行われている。そしてその地で、渡は加川良や岩井宏、中川五郎、そして後から合流したシバらと知り合い、高石、岡林以降の、今に繋がる日本フォークのメイン的な流れが確立することとなるのだが、その当時、渡の周辺で共に歌っていた藤村直樹という人についてもふれなければならない。
さて、藤村直樹といっても京都の人はともかく、ご存知の方は本当のフォークソング通だと思える。増坊も名前だけは昔から知ってはいたが、本人を観たのは今回が初めてであった。関西フォークの歴史を辿ると、彼の名は、第4回フォークキャンプコンサートで、「町工場のブルース」で登場してくる。その前は、フォークキャンパーズというグループにもたしか居たはずで、60年代終わり頃のフォークムーブメントの渦中で高田渡らと共に活躍した人なのである。
しかし、北山修と同じく、やがては音楽の道から離れて医者となり、一部では知られていたものの長らく「幻のシンガー」であった。
そして彼は高田渡とは京都時代より親交を重ねて、親友として、また彼の主治医として、公私にわたり長年渡の健康を気遣ってきた。藤村氏の存在がなければ、渡はもっと早く死んでいたと断言する彼らを知る人も多い。そんな伝説的なシンガー藤村氏は近年音楽活動を再開し、アルバムも出し精力的にライブをこなして、ついにはこの度シングルCDを出したのである。しかもそのタイトルが何と「老人は国会突入を目指す」というもので、ギャグではなく、政府の無策と老人虐待の政治に真っ向から抗議する正真正銘怒りのプロテストソングであった。《もう一回続きます》