歌も歌い手も歳をとる
かつてロックは若者の音楽と呼ばれたが、今日、R・ストーンズを見るまでもなく、中年親父から老人の音楽こそがロックなのである。それは、フォークソングの世界だって同じことで、かつて若者たちの熱い心情を歌い代弁した音楽も、歌い手自身も聴いていた若者たちも歳をとれば、当然歌もまた歳をとるはずだ。
フォークソング懐メロ特番での“懐かしいあの頃の歌”ならば、かつてヒットした懐かしい歌を年老いて変わり果てた姿の歌い手が息も絶え絶えに唄うかもしれないが、若者の歌を若い歌い手が唄うのが「うた」だとするならば、その歌い手が老人ともなれば、今度は老人の「うた」を唄うのが正しいうたのありかたではないか。
昨年夏の復活した「嬬恋」に対して何か違和感を感じてしまうのは、歌い手も聴き手も年老いて、もう若者でないのに、あの頃の歌を臆面なく共に皆で歌う胡散臭さにあるようにしか思えない。インタビューされた観客の一人が、「あの頃の自分に会いに来た」と語っていたが、バカヤローである。あの頃の自分なんか絶対会いたくない。もし、タイムマシンでうっかり会う機会があったらぶん殴ってやろうと思う。それはともかく、人はそのときどきの年代に際した歌をうたうべきではないだろうか。
もちろん、懐かしい昔の歌も歌ったって良い。良い歌はずっと歌い継ぐべきものだと思う。が、過去の歌ばかりではなく、今のうた、今の歳相応の、本当の今の気分にあった歌があるように思える。若者には若者のうたがあるように、老人には老人のうたがあるはずだ。ところがこの国にはまだそうした「老人のうた」はほとんどない。
こんなことを考えたのは、新大宮商店街の古川豪さんの薬屋店内で、最近の彼のうたの歌詞を読ませてもらい、また翌々日、実際にライブで彼が唄うその歌を聴いて、「老人のうた」を唄うことの大切さや必要性にようやく気づいたからだ。
今題名が正しいか失念したが、拾得でのライブで彼が歌った「へこたれない」という曲は、まさしくそんな「老人のうた」で、頻尿で夜中に何回も起き、老眼と入れ歯に苦労し、世間からは取り残されていく老人の悲哀と心情を、自ら?に重ね合わせてコミカルかつシニカルに、だが決して気弱にならずがんばろう!というメッセージを込めた老人世代応援歌であった。うたも歳をとるというのは決して悪いことではないと聴きながらつくづく思った。
人はみな誰もが歳をとる。団塊の世代と呼ばれた戦争を知らない子どもたちも、戦争を知らないまま老人へとなっていく。だとすれば、戦争を知らない老人たちのためのうたもあってしかるべきではないか。