当ブログについて考えたこと・続き
何でもないことにはなんでもないコメントをお気軽に
拙ブログが他と異なる点、もう一つは、ともかく読者からのコメントが少ないことだ。以前からごく稀にしかなかったコメントが、年月を追うごとに減り続け、一月に一件も反応がない月もままある。
今は、浜の真砂ほど個人のブログは存在しにぎわっている時代であるから、どこもそんなものなのかとも思うけれど、毎日書き続ける書き手の書いた量が意気込みだとすれば、反比例する如くやはりここはかなり少ない方ではないだろうか。
だから、以前は、無人島に漂流した遭難者が、瓶に手紙を詰めて、コルクの蓋をして広い海へと流す手紙のように思えていた。宛先もなく毎日書き続けるが、まず誰にも読まれることはなく、もし運が良ければ、どこかの誰かの元ににいつの日か届いて偶然読んでもらえるのではないかと思っていた。
しかし、昨年夏、休止の知らせを書いたらば、見ず知らずの人も含めて何人か問い合わせと反響もあって、日頃は何の反応もなくとも「声なき声」という言葉の通り、広いネットの世界ではどこかで誰かが読んでくれているのだと密かな自信と励ましを得ることができた。だから今ではコメントがあろうがなかろうがそのことで気に病むこともどれだけ読まれているのか解析してまで確認する気も全くない。しかし、何らかの反応は欲しくないと言えば嘘になる。自分はそれほど強くない。
では、何故コメントが少ないか。以前、親しいある読み手から直接言われたが、このブログは、気軽においそれとコメントできない雰囲気があり、書きたいことがあっても書くことはなかなか躊躇ってしまう、のだそうだ。
ならば、それは筆者の不徳のいたすところでもあり、申し訳なく思うがわからなくもない。他の方の人気あるブログを読むと、書かれた内容も含めてすべてが軽くオープンであり、気軽に双方がやりとりしている。はっきり言うと内容も薄いがコメントも薄い。ということは、こちらは毎回重たいことばかり書いているからコメントはしずらいということが何となく見えてくる。
また、ブログの礼儀として、コメントを頂いたら、すぐ「返答」も返さなくてはいけないそうで、それを怠っていたからますます誰もコメントしなくなったのでもあろう。しかし、いつまでも自ら増坊が書いた「返事」だけが残っているのも情けないしうんざりする。個人的用件や返答せねばならないことなら連絡がつく人なら直接お答えしているし、それ以外の読み手の私的「感想」ならば、それに「返答」する必要もないのでないかと考えている。頂いた感想に今度はこちらが何と「コメント」すれば良いのだろう?
先に書くことには覚悟と責任がいるはず、と書いた。しかし、こんなブログを読んで感じたこと考えたことにはそれはいらないし当てはまらない。一時期多かったネット右翼の方々の無意味と思える誹謗中傷的コメントなら削除も含めて対応せざるえないが、それ以外は何をどう書かれようが、批判されようが梨のつぶて状態より有難いと思える。
個人的に最近考えるのは、何か一つの題材、書いたことについて、もっと多くの方々からご意見やお考えをお寄せ頂いて、それをまた踏まえて次の話が始まるような、フィードバックのシステムがあるネット上のメディアはないものかと思う。かといって、スレッドを立てて、わいわいご意見を各自言いまくり騒ぐのではなく、もう少し、読み手と書き手がお互いに交互に書くことで、刺激を受け新たな発見、発展があるようなシステム。
うまく説明できないがどうもブログと言うのは簡便なものだが、まだまだ不具合が多く、人と人を本当に結びつけるようにはできていないと最近その限界を強く感じている。何か、もっとうまい良い方法はないものだろうか。
いずれにせよ、何でもない日には何でもないうたを歌うように、何でもないことも書くので、そんな日には何でもないコメントがもっと届くと嬉しいと思っています。