言葉の裏側を読むことの大切さ~世はいかさまだからこそ
何回か頭の良さについて書いている。
それにしてもこのころのNHKのニュースは毎日トップは、福田・麻生の自民党総裁選の話題ばかりで、いったいどうしてしまったのかと呆れ果てる。国民にとって選択肢も選挙権もない自民党内の総裁選びにどうしてこれほど時間を割くのか。それがトップの最も大事なニュースなのか。まるで自民党の太鼓持ち、スポークスマンと化している。そこに何の疑念も批判もない。まさに“バカの壁”である。どちらが総裁となり、首相に選ばれても同じ穴の狢であって、なんら根本政策に違いはないはずだ。国民から審判も信任も受けていないのは、安倍首相よりたちが悪い。もう二人の顔は見たくもないほどうんざりしている。
さて、読書の達人を評して昔はこんな言葉があった。「眼光紙背に徹す」。
その意味は、「書を読んで、ただその字句の解釈にとどまらず、その深意に徹底するをいう」――広辞苑より。つまり、文字通りだとするとページの裏側まで読み通す鋭い目利きであるということだ。
これは本だけに通用するはなしではなく、この世の森羅万象すべてに渡って大事なことで、つまるところ、この読み取る力とは考える力であり、洞察力、想像力ともほとんど同じものだと思える。下世話に言えば、物事の表も裏も含めて何でも疑ってかかることでもある。今の時代はその力が極めて衰えているように思えるのだ。
ごく一般的な“常識”でいうならば、例えば日本人同士の商談での「考えておきます」とは、決して承諾ではなく、ていのいい、やんわりとした断りであるのは理解されていよう。また、結婚した知人からの転居連絡のハガキにある「お近くにお寄りの際はぜひお越しください」というのも慣用句のようなもので、真に受けるのは外人はともかく普通の日本人はありえない。
大人であれば常にその言葉の裏の意味を読み取って判断しているはずだ。ところが言葉とは難しくまた不思議なもので、意味のどぎつい言葉は別の軽い言葉に置き換えられ、良いイメージの言葉には人は無条件でシンパシーというのか、好感を持つようなのである。言葉の置き換えは、「売買春」を「援助交際」に、「セックスする」を「エッチする」にとかが顕著だし、わざわざ聞きなれないカタカナ語に置き換える例もままある。「戦後レジーム」とか。
そして、最も問題としたいのは、「改革」とか「貢献」とかいう何か正しい、良いことのようなイメージを纏っている言葉である。その実態ははっきり分らなくとも人は「政治改革」「構造改革」とか「国際貢献」とか耳にするとそれはきっと「良いこと」に違いないと漠然と思う。その実態や本質を知らずして政治家たちが口にしたその言葉を何となく支持してはならないと思う。
先の参院選の結果を見るまでもなく、ようやく国民の多くは、小泉「構造改革」路線というのは、結局のところ、金持ち、大企業優遇で、庶民と地方切捨ての格差と貧困を生むマヤカシではないかと気がつき始めた。さらに安倍首相の言う「美しい国」なるものも実体のない空虚なキャッチコピーに過ぎず、「年金」「格差」の方に実感を持って共感したのである。
増坊が敬愛した故・山本夏彦翁は、生涯にわたって繰り返し「世はいかさま」であると説き続けた。このところの自民党総裁戦をめぐってのマスコミの騒ぎぶりを見てつくづくそう思う。
安倍首相の政権投げ出しの無責任さには誰もが呆れて果てたはずだろう。その安倍を推して支持してきた人たちが、性懲りもなく総裁選に出ては、参院選で審判の下ったはずの構造改革路線は引き継いでいく、などと大衆を前に演説している。その大衆には選ぶ権利はないのにだ。これこそ無意味なパフォーマンスであり、本来自民党はまず責任を取って衆院を解散し民意を問うべきであろう。
それにしても人心は移ろいやすいと言ったもので、つい先日、安倍退陣サプライズで、政治に対して国民は呆れ果て幻滅したはずなのに、早くも福田vs麻生の首相選びに関心は熱く向かっている。思うに、マスコミが世論誘導し、それにだまされまたしても深く考えずに究極の選択に参加している気になっている。同じ自民党の安倍の仲間がどうして政治を変えられるのか。少し考えれば誰でも気づくことだ。物事の裏を読むことの力が今こそ最も求められているのである。
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福田も麻生もどっちもいやだニャー!