旧東ドイツの真相
梅雨時のようなはっきりしない天気が続く。
今日から参院選挙後初の臨時国会が始まった。米軍支援の特措法を巡って与党と野党で一波乱あるだろうが、正直なところ今は関心は薄い。参院で法案が否決されたとしても結局のところ、自公が圧倒的数を誇る衆院で再可決されるのは間違いないからだ。まあ、民主党としてはここ一番の正念場であるのは間違いなく、問題はそこで腰砕けになることなく、真に民意を問うためにも衆院解散に持ち込めるかだろう。
さて、今年の夏のあいだから、ずっと考え続けていることがある。小田実とも、先日観た映画「善き人のためのソナタ」とも関係あることだが、体制と個人、小田的に言うならば国家と“市民”についてである。
例えばの話。国家に監視、管理されながら窮屈に生き死んでいくのと、国家に無視、見捨てられて棄民として生き死ぬのとどちらが良いだろうか。昔深夜放送などで流行った“究極の選択”である。
このところ考えているのは、社会主義国家とは、体制維持のため国民を管理、監視していく自由のない密告と粛清の体制であり、逆に日本を含めて資本主義国家とは、貧しい国民や弱者を自己責任の名の下に切り捨て見捨てる体制ではないかということだ。
映画「善き人のためのソナタ」では、旧東ドイツにおけるシュタージ(国家保安省)の秘密警察の実態と一党独裁下の恐怖政治が余すところなリアルに描かれている。
反体制活動の嫌疑を持たれた劇作家のドライマンは、恋人の舞台女優と暮らすアパートにベッドからトイレの中まで盗聴器が仕掛けられ、24時間体制で刻一監視されていた。彼らはそのことを知らない。だが、盗聴を担当したシュタージ局員ウィースラー大尉は、日々盗聴を続けるうちにいつしか二人に心を通わせ、国家に忠誠を誓っていたはずなのに、彼自身が体制に疑問を抱くようになっていく。そして、西側に向けて、東ドイツの実態を告発する文書をドライマンらが発したことにより、ウィースラー自らも窮地に陥っていく。1989年、ベルリンの壁が崩れ、やがて二人は・・・・
この映画は実話ではない。が、旧東ドイツでは、シュタージという国家権力による秘密警察が大きな権限を持ち国民全体を監視していたことは今日では周知のことであり、ソ連であろうと、ルーマニアの旧チャウセスク政権下でも、そして他のどの社会主義国でも西側には表立って知られていない秘密警察が存在し人民を恐怖で縛りつけていたたのは紛れもない事実である。
今日の中国はよく知らないが、おそらく北朝鮮でも間違いなくこうした秘密警察があり、国民を厳しく監視下におき、反体制活動のみならず、金主席を批判するような言辞を冗談でも口にしただけでも逮捕監禁され、投獄、ときに殺害されることがあるに違いない。こうした国では密告が奨励され、誰がスパイかと疑心暗鬼になり、人々は自分もいつ逮捕されるのではないかとビクビク怯えながら生きていかざるえない。
かつて若い頃、マルクスをほんの少し齧った、いや、匂いを嗅いだ程度であるが、ちょっとでも学んだ立場の者としては誠に由々しきことだと嘆息する。しかし、負け犬の遠吠えと捉えられようが、資本主義の方がよりマシであるとか優れているとは今でも絶対に認めない。
問題の本質は、各主義や思想にあるのではなく、政権交代のない独裁体制下における人間の本質=人間性そのものに問題があるからではないかと考えるからだ。