自由を求めて「時代」を捨てた男
増坊は当時子どもだったから、ややおぼろげな記憶なのだが、岡林は何度も失踪・蒸発と隠遁・沈黙を繰り返していたと思う。
デビュー当時、URC時代の“営業”は極めて過酷なものであったようで、ほぼ連日休みなく何ヶ月も全国的にコンサートがあり、しかもライブを終えた後に、観客を交えて合評会などもあって、彼は疲弊しトンズラこいてしまう。そしてさらには彼自身が望むと望まざるに関わらず時代の象徴として、フォークの“神様”と仰がれた男は批判の矢面に立たされることになる。
ご存知のように、ベトナム反戦、安保改定反対、大学解体など自由と体制の変革を求めた主に、若者たちによる「革命運動」は、70年代に入ると急速に沈静化し終息していく。べ平連と全共闘とフォークソングという三位一体の関係もそれぞれ内部分裂の様相を呈して、運動の中心にいた岡林は71年、アルバム「俺らいちぬけた」を発表し、やがて何年間も岐阜の寒村で農業生活を送るため音楽を離れてしまう。当時を知る中川五郎氏は雑誌「雲遊天下」誌34号「特集・秦政明とURC」(2003年10月刊)でURCの関係者たちとこう語っている。長くなるがその発言を引用しよう。
「岡林が一番辛い目にあったし、一番きつい使われ方をされたし、それに人気も出たからそれだけ攻撃の対象にもなったし、そして誰も岡林を守らなかった。というか支えなかった。《略》それで一昨年(2001年)、早川(義夫)さんが、昔のURCの仲間が集まってみんなでやりたいねと、僕とかで話をしていて、彼が岡林に手紙を送ったんだ。そしたら一切そういうことはやりたくないし、まったくやる気がないという返事が来て。でもライブに行って、楽屋を訪ねたけどシラッとして。今でもフォークソング時代の人すべてに対して嫌悪感がしみ込んでいるみたいだった」。
俗に「時代が彼を生み、時代が彼を捨てた」という表現がある。だが岡林の場合は、少し違う。彼が時代を作り、また、彼が時代を捨てたのである。