クラブ活動の意義
記録よりも記憶に残るほうが価値がある、といったのはあの新庄選手だったか。確かに選手としての実績よりも派手なパフォーマンスや、話題性で野球ファンの脳裏に彼の姿は現在くっきり焼き付いている。しかし、哀しいかな、その記憶も、彼と同時代を生きた人々と共にやがては、30年後、50年後には跡形もなく消えてしまい、イチローや松井レベルはともかく、そんな選手がいたことはよほどの野球マニアならともかく誰一人知っていることはないだろう。
かつて、カウンターカルチャー、もしくはサブカルチャーという言葉があった。従来の文化・芸術とは一線を画した、新しい若者文化を指していたように思う。自作自演のフォークソングもそうだし、自主製作映画、小劇場やオフシアターの演劇運動などがそうだ。それらは、アングラと一括りにされ、既製の体制、社会からは異端視された。しかし、しかしそんな中から横尾忠則しかり、寺山修司しかり、武満徹しかり、赤瀬川源平しかり、吉田拓郎しかり数多くの天才が登場し、異端であった彼らが時代を先導し、現在の文化状況の礎となっている。彼らはスターとなったから、歴史に名を残すことになったが、その周辺と彼らの後ろには、彼らを支えた当時の社会状況の存在が大きいことを忘れてはならない。仲間やスタッフももちろんのこと、支持した若者たち、ファンも含めて一つの時代、一つの文化だったのだと思う。問題は、そうした「背景」をどこまで歴史は記録しているかだ。
「深夜放送の時代」と呼ばれた時代がかつて確かにあった。60年代の半ばから70年代の前半まで続いたと現代史の本ではさらりと書いてある。若者たちによる「深夜の解放区」とまで言われ、フォークソングのヒット曲も次々そこから生まれ、コンサート、自主映画、演劇と若者たちによるサブカルの情報源・発信元であった。
しかし、実際の放送はどんなものであったのか、それはどこにも記録されていないし、歴史の本からはその熱気は伝わってこない。当時の若者たち、それをリアルタイムで聴いていた者は漠然と覚えている。雑誌や本なら当時のものを集めればその状況はたちどころにつかめるだろう。しかし、日々の放送などというものは、放送ライブラリーに保存されるような「番組」「作品」はともかく、放送局にもどこにも残っていないし、当時聴いていた者の記憶の中にしかない。まして深夜のラジオである。だからこそ若者文化を牽引し、一時代を築いた文化ナビゲータとしての「放送」はもっと検証され、記録保存される必要がある。
林美雄は一放送人でしかない。しかも数年前に亡くなられた過去の人だ。しかし、ある時代、若者文化を牽引し、サブカル情報の水先案内人として全力を尽くした。彼の70年代10年間の放送活動を今こそ記録し、今手元に残る数少ない音源を恒久保存し、後世に伝えなくてはならない。
齢50に手が届くようになり、自らもボケの怖れをひしひしと感じる今だからこそ、記憶を記録に残していかないとと思ったのだ。今ならまだできる。しかし、10年後はわからない。