何故いま林美雄なのか・続
ある時代があるとする。括るとすると、80年代、90年代、などと西暦で10年ごとに区切ることが多い。しかし、今21世紀初頭の10年間のうまい呼び方はあるのだろうか。2010年からは、10年代と呼ぶとして、後世の人はこの時代をどのように呼ぶのか気になる。、それはともかく、本題に話を戻す。
かつて70年代という時代があった。増坊は、1950年代後半、元号でいえば昭和30年代前半の生まれだから、子供ながら大阪万博に行ったし、ほぼ丸々十代と70年代は重なっているわけで、青春時代と70年代は同義語に近いほど良く知っている。しかし、今の人たち、たぶんネット上で、ブログを読む人たちの多くは、その70年代生まれだったりその後の世代だったりで、実際にリアルタイムでその時代を体験した人はもはや少ないかもしれない。
それらの人たちにとっての70年代というイメージは、増坊が、戦前、戦後の昭和時代をイメージするように、もはや歴史的過去のことに近いと思う。教科書などの読み物、テレビで見た映像で知ってはいるが、実際はピンとこないもどかしいようなあの感じ、に近いのではないか。実体験に及ぶべくもないが、リアルに感じられないのは、本や映像に記録される歴史には、本当の庶民の生活や当時の人々の息づかいなど些末なことは抜け落ちているからだ。
思うに誰も記録しないし、記録に残らない当たり前のことの中に、歴史の真実があり、結局それは当時を生きた人の心の中にしか残っていない。神は細部に宿ると言われるが、歴史というのは、後世に残る歴史的なことが歴史なのではなく、庶民などの普通の人々の日々の営みが歴史なのであって、それを記録しなければ本当の歴史の姿は見えてこない。
エラソーなことを書いているが、これは増坊の自論でもなく、ラジオから教わったことだ。教えてくれたのは、林美雄さん。彼もまた鶴見俊輔たちからの受け売りだったかもしれないが、僕はラジオを通して、「本当に大切なこと」を彼から学んだ。そして、この歴史認識の先に、この林さんに関するクラブがある。何故ならば、放送など、その日ごとに吹く風のようなもので、一瞬後には消えてしまい、誰もそれを記録しないし、残すこともない。ただ、偶然それを聴いた者の心にその言葉が残るだけ。しかし、それもやがて時とともに忘れ去られ、聴いた人ともに消えていく。だからこそ、そんなカタチに残らない記録にならないものを記録して保存していこうと思ったのだ。それこそが僕たち70年代を生きた者の歴史なのだから。
歴史とは後世の歴史家たちが作るものではなく、その時代を生きた者たちによって本来作るべきものではないだろうか。