もっと食えない音楽の世界・2
昔は文士、つまり小説家、物書きは食えない職業の代表であった。それどころか、社会的には異端分子、脱落者同然で、まっとうな世の人々からは常に色眼鏡で見られていた。それが、昭和の初めの所謂円本ブームで、ちょっとの名の知れた物書きなら信じられないほどの高額印税を手にして、中にはそれで家を建てた者もいたそうで、「文士ふぜいの分際で…」とまたとやかく言われたらしい。それはともかく、小説家や音楽家、果たしてそれが芸術家なのかはともかくも、どこか会社に所属せずに、フリーランスの立場で実際に小説や音楽でメシを喰うのは今も昔も難しいことには変わりないだろう。今日、出版の世界では次々とベストセラー本が登場してくるが、本当に小説だけでしっかりメシが食えている人はほんの一握りではないだろうか。そして、それを言えば、増坊の好きな音楽、つまり日本のフォークシンガーなど、さらにもっと食えない職業だと言うのはその代表的な人、例えば高田渡氏の在りし日の姿を思い浮かべれば、誰もが肯けることだろう。彼自身の語りを聞くと、彼の暮らしは現代なのにほとんど志ん生の貧乏長屋時代を彷彿させるものがあった。
これはまた先日聞いた、別なフォークミュージシャンの話だが、かつては、大手のレコード会社から何枚もLPを出し、CMなどで自分の曲が使われヒットした実績もある人なのに、音楽ではメシが食えずに、実家の食堂を手伝ったり、運転手をやったり常に様々な仕事をしている人もいて、本人の名誉のために“ピカピカに光って”た名前は出せないが、フォーク仲間うちではそれほどの有名人なのに、いったいどうしてなのかと驚き不思議に思う。結局、日本のフォークソングというもの、拓郎、陽水が登場してからは完全にメジャーな人とマイナーな人と二極化が進んで、Jポップなるシーンに移行できた者は今でも成功の甘い汁を啜っているのだろうが、それ以外の人、つまり増坊が好きな、昔ながらのフォークシンガーたちは、かつてのフォークブームの頃は、大手のレーベルからレコードも出せたが、状況も様変わりし、唄をやめるか副業を持って何とか食いつないでいる。変わらずに唄を歌い続けている人でも今ではほとんど自主制作盤的に自らCDを作っては、それとギター1本持って各地のライブハウスを巡っては売るという、あたかも旅芸人のような暮らしらしい。それはそれで端から見るとつげ義春のマンガみたいで味があるが、本当に歌うことが好きでないと続けられないことだろう。
それらの侘びしい、売れないフォークシンガーたちの祭典が「祝春一番」なわけで、彼らを見て、増坊も憧れて、音楽をやりたいと思ったとしても、Jポップの人気シンガーになってミリオンヒットを生み出すならともかく、自らが歌いたい唄だって、この世で一番金にならないものなのだから、どうあがき転んだって音楽でメシなど食えるはずは万に一つもないのである。ゆえに自分に出来ること、ネットで古本を売ることしか今はないわけで、十代の進路に迷う少年ならともかく、いい歳したオッサンなのだからバカな夢見ないで、いいかげん目を覚まさないといけない。
それでも歌いたいことがあるんだ。歌いたい唄があるんだ。今すぐは無理でもいつかきっと人前で下手くそな唄を下手くそなギターで精いっぱい歌う日が来ると信じている。
★増坊を励ましのコメント頂いた皆さん、本当にありがとうございました! 歌う場ができたときには真っ先にお知らせいたします。
近江八幡の商家の軒下にいた狸の置物。関西の特産品です。