文化学院について
“自由”を創立の理念に掲げる学校は、大正リベラリズムを具現化する試みとして、同時期に設立された羽仁吉一、もと子夫妻の「自由学園」など他にもなくはないが、文化学院は戦前の保守全体主義の時代、小さいながらもともかくユニークで特異な“学校”であった。戦時中は弾圧され当局に閉鎖されていたことはいかにリベラルであったかの“勲章”だろう。今日では学校法人となっているが、増坊の父が通った戦前は私塾のようなものだったと聞いている。
ここはまた、自由思想家西村伊作を校主に、創立者には与謝野寛、晶子夫妻、石井柏亭、河崎なつというそうそうたる顔ぶれが並び、今日に至るまで各界に逸材を数多輩出しているが、中でも絵画やデザイン、音楽、芸能関係に活躍した人々が多いことで知られている。詳しくは文化学院のホームページをご覧頂くとして、大正10年、1921年設立の文化学院、向かい並びのアテネ・フランセと共に、マロニエの並木道と相俟って、かつての明治大学の巨魁な校舎を横目に、坂道を上っていくとまさにそこは、自由の香り溢るる日本のカルチェ・ラタン、パリそのものだった。
西洋に憧れたが思いは叶わぬ多くの文学者や文学青年がどれほどこの通りを歩き、異国への熱き想いを馳せたことだろうか。文学の歴史を紐解くと、お茶の水というよりもいわゆる神田、駿河台、近くのニコライ堂とともにこの地がかつて、日本で最も先端の自由と文化の香り溢れる知のメッカであったことがよくわかる。そんな過ぎ去った良き時代の「証人」「生き字引」のようなモニュメントが今また一つこの世から消えていく。
文化学院hp http://bunka.gakuin.ac.jp/about/nishimuraisaku.html
★トチの木=マロニエもようやく芽吹いて来た頃でした。