本とは「出会い」なのだけれども
結局、学校教育としての読書に本好きを増やす効果があまりないのは、授業の一環として、本来平等であるはずの教育の枠の中で、順位や優劣がつけられてしまうからだろう。作文教育だって同じことだ。読書の楽しみや書くことの楽しさを覚える以前に、一定の規格に基づいた評価がつけられてしまう。それでは子どもは最初の出会いからして好印象を持たないのではないか。読書というのは、勉強ではなくまず何よりも楽しみとしてあるはずなのだから。
そして、そこに本と出会うタイミングもある。本の善し悪し、面白いかつまらないかということもあるけれど、それ以前に、受け取る側として機が熟しているかということが大切だ。これは多くの人が書いていることだが、ある日突然、ある一冊の本と出会ったことがきっかけで、それまで全く関心がなかったのに本の世界に没頭しはじめ本が好きになりやがては作家、物書きとなった人も多い。宗教哲学の中沢新一氏の場合はルナールの『にんじん』を挙げていたのをどこかに書いてあったが、氏はそれまで本には全然興味も関心もなかったのに、ある日突然理解でき以降夢中になったのだという。つまり子どもの内面の、本を受け入れられる感覚器官が完成しないうちはまさにどんな良書であろうと馬に念仏であろうし、そのときにちょうど適した面白い本に出会えるかということだ。
幸運にもその出会いがあった人は、それをきっかけとして次々自らいろいろな本に手を伸ばし、本好きとなっていく。親や教師は環境としてのお膳立ては設けることはできるかもしれないが、その素晴らしいタイミングを与えることはできやしない。ただ、本が身近にいくらでもある家庭環境にあり、親もまた本の虫であるならば子どももまた本と出会うきっかけは得やすいことは言うまでもない。
多くの作家が自伝や思い出の本、忘れられない本について書いた随筆を読むと、かなりの人が本と出会ったきっかけとして、家にあり父親がセットで買ったものの応接間の書架に並んだままとなっていた世界文学全集、日本文学全集の類を挙げている。かつて書いたことの繰り返しとなるが、大正末から昭和初期、一世を風靡した“円本”にはそれなりの功は確かにあったのである。