まとめとして
今の人、に対して何回かに渡って苦言というか、批判的言辞を繰り返してきた。誤解なきように言っておきたいが、ここで言う“今の人”とは若い人のみを指しているのではないし、増坊自身も含めて今時の風潮、その流れに棹さしている人たちについてだ。いわば自戒の意味も込めて書いたつもりだ。自分のことを棚に上げての若者批判だと捉えられたら甚だ心外である。まあ、言葉が足りなかったと反省するしかないわけだが。ご意見ご批判は真摯に受け止めていく。どこかの首相のように反対意見を抹殺したりしないからご安心下さい。
さて、その時代の風潮というか、雰囲気というようなものについて少しふれたい。増坊が知る限りでもそのときどき、そうした「雰囲気」は少しづつ微妙に移り変わっていく。かつては学生運動の昂揚に見るように、“政治的”ということが時代の全面に出て人は各自思想信条を語るのが当然と思えた時代もあった。また、そうした時代、本に関しても思想書や哲学、政治に関するものが多く出され一般人にも広く読まれた。若者たちにとってそうした本を読むことがカッコイイ時代であった。だから当時は、政治ばかりではなく、社会構造や将来のこと自らの人生の方向について誰もが真剣に考え煩悶した。高橋和己の小説などほぼすべてそうした“思想”と自らの人生における“実践”との葛藤を描いている。
しかし、今ではそうしたことに悩んだり考えたりするのは極めてカッコワルイこととなっている。80年代のいつ頃からか、ネアカ、ネクラという二分化が面白おかしく語られ、人生について悩んだり深く考えたりするのはネクラ、つまり根が暗いと否定的評価を受けるようになった。そして明るく楽しく、面白く、さらにわかりやすいということが良いこととされて今日の風潮に至るのである。(だからテレビは時代の雰囲気を正確に反映している)
簡単に答えの出ない難しいことについてうじうじ一人で考え悩んでいるのはバカらしいことだ。男でも女でもそんなことに時間を使わないで、スッパリ忘れて何も考えず、流行のファッションに身を飾ることや新作ゲームを攻略していく方が楽しい。増坊も今の人ならばそうしたかもしれない。でもかつて、考えることが大切とされ誰もが考え悩んだ時代の雰囲気を子ども心にもちょっとでも知る者としては、このブログも含め今こうしてやっていることはカッコワルいし馬鹿馬鹿しく無駄なことに時間を費やしていると思うが、これからもおいそれと簡単に答えも結論も出ないことに執着し悶々と悩んでいくだろう。そして考えたことをこのブログに書いていけたらと思っている。かつての大ベストセラー本に『頭の体操/多胡輝』というのがあった。その伝でいけば、今自分がやっていることは朝のラジオ体操にも満たない頭の運動量だと思っている。