緑雨の警句とは
さて、では実際、彼のアフォリズム、警句と呼ばれるものとはどういうものなのだろうか。いくつか挙げてみるが、基本的に彼自身が見聞きした話を小話のように、オチをつけてまとめたルポ風のもの、例えば、
◯裏屋根に猿啼く山奥より出来りたる男の、都は丸乃内に散水車を知らず、掘より汲込むを一心にながめ居たるが、しばらくして往来にさつとそれの迸るや、あれあれ折角のものをと追つかけ行きて、箱が漏ります、箱が漏ります。
◯意地悪き男の二人連れにて、不忍池のほとりを過ぎしに、死したる鮒の浮べるあり、土左衛門よと一人のいへば、水に棲む魚の水に死したるを溺るとは言はずと、一人のいふ。さらば何といふぞときほひ蒐れば、知れた事なり、鮒の行倒れ。
◯朝の男湯は、昨夜の火事の噂をきくところ。夜の女湯は、先刻の沢庵の禮をいふところと言ひしも、最早古し。場末なる今の男湯を、一口にいへば、車夫の競ふて其日の巧妙を論ずるの場処なり。
◯赤犬黒猫といふことあり、犬は赤きが、猫は黒きが、味ひの美なればなりと。
――というような類のものと、先の「筆は一本也、箸は二本也」のような格言というか、まさに寸鉄人を刺す、金言のごときものの大別すると二種類に分けられる。後者については後ほどまた例を挙げるが、ルポ風の上記の四本でさえも、そこに「緑雨の文によって私は当時の風俗を見ることができる。値段を知ることができる。言語を知ることができる。気をつけて見れば今はすたった言い回しを見ることができる《略》私は緑雨のなかに今も用いられる明治の語彙と言い回しを見る。ほとんど絶妙である」と山本夏彦が絶賛する操觚者(文章家)としての力量が窺い知れよう。
緑雨のこうしたエッセイともコラムとも今日では呼ぶことができるであろう短文から、明治の半ば頃、既に都心では散水車が走っていたことも、その水は掘から組み上げていたこともわかるし、人力車全盛の時代の銭湯の様子、当時は犬猫を本当に食べていたのかは定かではないが、巷間今に伝わる、赤犬はウマイという“伝承”、さらには猫ならば黒猫!という未知の情報さえ得ることができるのだ。
増坊は江戸戯作文なるものについては甚だ疎いが、鮒の行き倒れの類など、落語の小話、もしくは、漱石の「猫」の先生宅に集う閑人たちの会話をつい思い出してしまう。また、これら文語文で綴られる伝聞譚は、古くは徒然草の中の、ヘンな話、不思議な話に相通じる部分もあり、「江戸式作家の殿(しんがり)の一人」(坪内逍遙の緑雨評)のみならず、さらに遡って連綿と続いてきた旧い日本文学の伝統に則った最後の人であったと思ふ。