アイドル写真集の意義について
アイドル写真集について考えている。こうした写真集の価値とは何だろうか。ズリネタとしての、“実用”以外の価値についてだ。むろん、買う人はそのアイドルや女優、タレントのファンだからそれを手にするのだろう。そして、大人になって好みが変わったり、引っ越しや就職、ときに結婚に際して、そうしたかつてのアイドルたちに別れを告げ“処分”するときがくる。そうした捨てられた写真集たちが古本屋の元に集まり、再び市場に出回るわけだが、過去のアイドル写真集など誰が買うのか。
誰も買わない、となると、この商売もこの話も終わってしまうので、多少でも動くものだと前提でいく。買う人は、やはり今もそのタレントが昔から好きだという人もいるはずだ。昔は金がなくて手に入らなかったから、と言う人もいるだろう。自分の青春を振り返り、当時輝いていたアイドルの全盛期のアルバムを手にすることにより昔を懐かしむという御仁もいると思う。こうした心理は、女性より男性の方が強いと思う。荒井由実の昔の歌ではないが、「♪あなたは、わたしの青春そのもの~」というアイドルや女優がたいていの男には存在していると思う。男の子にとって初恋の人、とは、クラスメートや幼なじみであるより、アイドル歌手だったりする場合が高いのではないか。だからアイドル写真集というものに、価値があるとしたら、そうした彼女たちが一番輝いていた時間がそこに閉じこめられた、永遠のものであるからだと思う。むろん、その後、脱いだり、結婚したり、子連れで離婚したり、あるいはさらに過激に、Hに変貌したとしてもだ。といってもかつてのトップアイドルだった天地真理など、近年のその変貌ぶりを懐メロ番組などで見てしまうと、昔の彼女に心ときめかした、かつての少年達としては複雑な心境になるに違いない。いくら何でもなァ、である。
話は脱線したが、アイドルとはその時代を映す鏡であるわけだから、松田聖子の時代があったように、現在はやや凋落の兆しが見えつつも浜崎あゆみの時代が続いていて、そうした大物の陰に、有名無名のアイドルや、デビューしたもののすぐに消えていく泡沫タレントたちもいて、そうしてそのときどきの時代や流行が形成され、時は移ろっていくのである。だから、ほぼ無名のタレント写真集でも、やはりそれは一つの時代の記録と捉えるべきで、こんな人がいた、あんな人もいたと、その証拠としても価値がある。不在証明という言葉があるが、逆に写真集こそ、時代のアリバイ証明なのだ。
増坊にとって、そんなアイドルがいただろうか?アグネス・ラムの姿がふと頭をよぎるが、個人のアイドル変遷史というのは、みうらじゅん氏ならともかく、やはり公開するのはかなり恥ずかしい。が、おいおい書かざるをえないだろう。風吹ジュンが初恋の人だっていいではないか。