セカチューの3000倍すぐれた純愛映画
最初は観ているのが痛いぐらいの青春純愛映画である。一言でいえば通俗的初恋純愛ストーリーとして始まる。これは、あちら版のセカチューだと思っていたら、実際、全米で450万部の大ベストセラーを映画化したものなのだという。だが、天と地ほど出来が違う。こちらの原作は知らないが、映画だけを比べてもカスとかクズとか人に語る価値もないセカチューに比べて根拠はないが3000倍は良くできている。映画に爪などあろうはずがないが、日本の映画人は、この映画の爪の垢でも煎じて飲むがよろしい。
痛いぐらいの通俗映画なのだが、戦前の南部の田舎町の情景などすべてがあまりに巧みに描いていて、出演者たち老いも若きも好演も相俟って、最後に行くと思わず泣かされてしまった。
泣けるにはワケがある。セカチューでの主人公、サクは、過ぎ去った過去の、失ってしまった恋人との思い出に未だ浸ってばかりで、うじうじぐじぐじまるっきり現実、今現在を生きていないのに対し、ここでは、主人公、ノアの純愛は年老いてもなお今も続いているわけで、久々に健在なところを見せてくれたジェームズ・ガーナーの名演に思わず胸を打たれる。多くの恋愛映画は、主人公2人の結ばれるまでの、あるいは悲恋に終わるにせよ、その紆余曲折を描くことで成り立っているが、では、その後の二人についてはまず描かない。恋愛は若者の特権だからだし、老人の純愛などでは観客は呼べないからだ。だが、もしその愛が永遠のものであるのならば人は老いてさえも、いや死ぬまでも愛することをやめないだろう。ジーナ・ローランズ演ずるアルツハイマーにおかされた老女の元に日々通う、ガーナー演ずる男は、これまでにいったい何度彼女のためにそのノートブックを拡げ、若者たちの恋愛「物語」を読み聞かせたのだろうか。それを考えただけでも目頭が熱くなる。老人たちと対象的に繰り広げられる「過去」の若者たちの恋愛が通俗的であればあるほど「今」に対して大きな意味と価値をもつことがしだいに明かされていく。静と動、対象の妙。そして物語はラストで一つに繋がる。さすが、ジョン・カサベテスとジーナ・ローランズを両親に持つニック・カサベテス監督、ただ者ではない。初恋とか、永遠の愛などの手垢のついた「定番」をここまで新鮮に瑞々しく、しかも泣けるように巧みに描くとはもはや職人芸の世界である。そして影像の美しさ、戦前の南部の街のセットにも感心した。せめて、この映画の100分の1でも実現できるよう爪を煎じて飲んで日本映画も見習ってほしいと思う。