他人の読んでる本が気になって
先日のこと、勤め人でないので、電車に乗るのも週に一度あるかどうかという筆者が、都心に映画を観に行ったときの帰りの車内での話。
夕方6時頃の、朝ほどではないが、かなり混んでいる電車だったが、初老とおぼしきサラリーマンらしい中年男が文庫を一心に読んでいた。増坊は古本屋という職掌がら、ついつい他人の読んでいる本が気にななることが多く、それが近くの人であれば後ろから覗いて見るようにしている。たいていは、「十津川警部」などの文字が垣間見られ、それが件のベストセラーシリーズであるとか、確認できればそれで済むわけで、どんな本か、中身がわかるのは2冊に1冊ぐらいの割合だろうか。いや、せいぜい数駅の間の、数ページのおつき合いだから、何という本か解らないことのほうが多いかもしれない。それにたいてい書店のカバーがかかって、外からはタイトルが見えないようにして読むわけで、隠すこともないとは思うが読書はプライバシーの一つということになっているのだろう。だとすれば、ところかまわず大声で電話をかけている携帯での通話だって、人はもっとプライバシーに配慮してこそこそと話すべきだと思うが、やはり読書好きの人の方が常識人であり慎ましいということか。
その中年男性の読んでいる本を盗み見して、おや?っと思った。芥川龍之介のことについて書いてある。それと小穴という芥川の本を担当した装丁者の名前もその文章には登場する。今頃芥川なんかについて書かれた文庫を電車の中で読んでいる人がいるとは思いもよらなかった。気になって彼と一緒に文章を追った。どうやら芥川の生涯に関する評伝らしい。自分は読んだことのない本だった。“小穴隆一は、「芥川は僕に自決することを告げた」、と書いている”、などとある。一体何という本だろう。作者は誰なのか。カバーがかかっているので本の装丁もタイトルもわからない。かろうじてページ左側上に、“芥川龍之介の死 ”という章題は確認できた。その人は2,3駅一緒だったが、先に降りてしまいそれきりとなった。後から、よっぽど声をかけて「スミマセン!その本何て言う本なんですか?」と勇気出して聞けば良かったと後悔した。芥川の死の原因について畳みかけるような文体は猪瀬直樹に似ていたが、彼に芥川についての評伝はあっただろうか? 自分の駅に降りて家に向かう間もずっと気になって気になって仕方がなかった。電車の中で垣間見たというか、数ページちょっと盗み見しただけなのに。
ところが、昨日、家の倉庫の中で未整理の本を積み直していたら、ふとした偶然でその本が判明した。松本清張の昭和史発掘というシリーズがある。それの2巻目を手にしたら、箱に、「三・一五共産党検挙」と並んで、「芥川龍之介の死」とあるではないか。慌てて箱から本体を取りだしページを繰った。芥川の死と小穴の関係について…あるある、書いてある!この本だ。違いない!思わず昂奮した。それだけの話だが、今この本、手元に置いて読みふけっている。やはり清張は面白い。あのサラリーマンが読んでいたのはこれの文庫版だったのか。ありがたい。良い本を教えてもらった。自分の店にあってもこんなことがなければ果たして読んだかわからないというのも実に情けない話だが。これもまた本との出会いと呼べるかもしれない。それだけの話なんだが。
★これがその本。松本清張著 昭和40年第1刷 文藝春秋刊 全13巻の2巻目。著者曰く、
昭和前期の現代史を書きたいというのが私のかねてからの念願だった。われわれの立っている地点を見定める上からも、この時代は大へん重大な時代である。そのため今日的視点に立って、できるだけ底流から材を拾うようにした。