なかなか思い通りには進まない・・・
拙ブログなかなか更新できず申しわけない。この2、3日体調を崩して寝込んでいた。
と言っても、二階の片付けもまだ終わっていないので、3時間ぐらいは作業して一時間ほど横になってうとうとしてまた起きて数時間片付けして少しまた横になるというスパンを繰り返していた。朝が早いので夜は起きていられないしメガネも壊れているので暗いと作業できない。そんなでブログも書かず夜はぐっすり眠れたのだが。気候のせいか今日は腰痛が悪化して階段の上がり下りも唸りながらの青息吐息である。
昨日はともかく、このところ梅雨のはしりなのか天気が悪い。おかげで、日、月、火と大工は来ず、少しはのんびり出来たのだが、片付け作業も含めていろいろ懸案のことも思うように進まないまま時間が過ぎるばかりで気持ちも焦ってきた。もう5月も終わりで季節は初夏へと移っていく。
抱えていることは全て少しづつでも進んでいるかと思うのだが、他の人の動きを見聞きすると自分だけが取り残されていくような気さえしてきた。いったい自分は何をしているんだろうか。
今やっている片付けというのは結局、過去のことに対峙することであり、過去の自分と、したことに向き合うことに他ならない。楽しい思い出ばかりならばともかく、その大概は懐かしさはあっても苦い後悔気味のことばかりだ。特に写真や昔の手紙等が出てくると、嬉しいより感傷的にもなるし、結局いつもダメだった自分、失敗した恋愛などを振り返っていくと、自己卑下、自己否定へと気持ちが沈んでいく。それもあってこの作業は心身ともに調子を崩していく。まあ浮かれ気分よりは内省的になることは良いことなのだろうが。
ならば中身も見ずに一切合財ゴミとして処分できればよいし、そうすべきだと自分でも思うのだが、今はもういない、好きだった死んだ女の子の若い日の写真などが出てくると、それは捨てるよりはやはり彼女の家族に送るべきだと思ったし、何の役に立つかはともかくも資料的に価値あるものもなくはないので、ざっと目を通してはゴミと大別しては袋や箱に詰め込んでいく。
ついグチ気味になって申し訳なく思う。しかしこの作業もあと数日のうちに終わる。もう窓の外には新しい木材が立ち並び、早く空っぽにして剥き出しにされるこの部屋の古い棟材と連結されるのを待っている。今日は大工が来て、まだカラにならないのかと文句言われ改めて急かされた。もうあと少しだと思うし必死に連日片付けて先は見えているのだが・・・。天気が心配だが今週中にその新旧の柱を一体化させその上全体に屋根をかける大工事が始まるはずだ。それさえ終われば次は細かい内装工事へと移っていく。
そう、まさにまずは家のこと。そうなればあとは一切大工に任せて、施主はときに注文つけるだけで良い。ようやく本来の立場に変わる。その前にあとひとふんばりだ。さすれば新しいことはともかく、今抱えていることにもっと専念する時間ができる。ブログだって落ち着いて書ける。
家で一人で作業をしている間は、手足はともかく耳だけは空いているので、古いカセットテープをラジカセでかけている。その中から加川良さんの70年代の札幌、ビー玉とかいうライブハウスで律さんと演った録音が出てきた。何でそのテープが手元にあるのかよくわからないがおそらく友人が置いていったんだと思う。
良さんは常にぶれず今も全く変わらない人だが、今に比べるとこの頃はさすがに油が乗りに乗っているという感じで、そのコテコテ感に感心もしたが、やはり「下宿屋」は、今聴くより、リアルタイム的にビビッドにこちらに訴えるものがあって胸が痛くなってきた。
それにしてもこれは高田渡のことを唄った以前に、音楽史に残る名曲だと思う。語り歌としての秀逸さと共にこんな曲が書けただけでも加川良とはまた一人の天才だと感嘆するしかない。渡氏の名前を出さず渡氏とうたとは何かに彼自身がきちんと答えを出し語っている。そしてその姿勢は今もって変わっていない。
そう、良さんはいつだって唄っていた。
♪焦って走ることはないよ 待ちつかれてみることさ 溜息ついても聞こえやしないよ それがうたなんだ と。
でも卑小な自分は、そのうたを聴きつつもずっとずっとあれからずっと焦り常に走り続けているんだ。わかってはいるが自分のうたとはその中からしか生まれないと思うし、そのことをうたにするしかない。だからその下手くそなうたを自分はこれからも唄っていくしかないんだ。唄わないでいることが良いことなんだとわかってはいても。