さて、本の行く末について
とーとつだけれど、人類の発明したものの中で、最も優れたもの、画期的なものは、考えるに、文字とお金ではないかと思う。お金、つまり貨幣はそれまで物々交換でしかなかった経済行為を代替のものに置き換え流通を簡便にしただけでなく、保存すること、つまり貯蓄という概念を生みだした。お金なら腐らないし、貯めて永久に保存することができる。そして、文字。言葉のようなコミニュけーションの手段は他の動物だって程度は低いが持っているが、それを文字にして保存や記録しようとは思わないし、第一できやしない。これらが人間が他の動物と格段に違うことだ。ひとえに人間はこうした、“保存する”動物なのである。他の動物はどんなに高等であろうとも、自らは一代限りで子孫は残すだろうが、それ以外何一つ残したり自分の死後も保存しようとは思わない。ところが人間はどうか。金と文字のおかげで、古代からの人類の歴史が連綿と今日に伝わり、未来へと続いていっている。勿論、アボリジニやアイヌの人たちのように文字を持たなかった民族もいる。彼らは口語による伝承で歴史を記憶し語り伝えてきた。彼らの“伝説”さえも人間のみが持つ“保存する”という本能から来ていることは間違いはない。その要求の必要性から考え出されたのが、文字なのである。
保存というと語弊があるかもしれないが、他者との伝達手段として、今この場にいる者に対しては「言葉」をそのまま用いれば済むことだ。問題は今いない相手、時間差のある相手にいかに自分のメッセージを伝えるかだ。まずは文字でなくても意味さえ伝われば良いわけで、南米の土人、――差別用語かもしれないが、だとしたら南米の土人の人は抗議のコメントを書き込んでほしい――ならば、タブーがある場所、その場所に立ち入るべからず、という意味を後からの人に伝えたいとき、その場所に木や草で注連縄のような印しを作る。ホボ・サインというものがある。ホボとは浮浪者を指すホーボーの語源となったものだ。元々はヨーロッパの中世、ジプシー(現ロマ)の人たちが使っていた情報伝達のための記号で、○×などの記号や素朴な絵で、街角や塀にチョークなどで書き付けて後から来る仲間達にその町の情報、例えばこの町は安全ではない、などを伝える役を担った。だがこれらでは一つの意味、センテンスしか表示できない。人の要求は常に高まる。意味ではなく、やはり言葉を文字に置き換えて、そしてそれで保存していこうと考えたのも当然だ。そしてそれら文字を集めて「文」ができ、文を集めて「本」ができたのだと思う。