おいで皆さん聞いてくれ
本読みの達人として、眼光紙背に徹すとか、行間を読むなどという言葉がある。しかし、当たり前のことだが、本に書かれていないこと、つまり文字になっていないことは現実にあったとしても「ない」ことであり、人がどれほど想像力を発揮しようと確証も裏づけもそこにないわけで、残念だが文字情報には限界がある。
これは以前、中島敦の小説に関して書いたことだから繰り返しとなるが、人類は互いの意思疎通のために言葉を編み出し、さらには伝達や記録のために文字をも考案した。そして古くは動物の骨や粘土板のようなものに文字を刻み、やがては紙、そして究極は本というものに情報を記すようになった。しかし、すべてのこと、例えば歴史書でもすべてあったことが記され残されているわけでは当然ない。時の為政者にとって都合の良い、文字にして記すことだけが記録され、他の記されなかったことは大事なことでも結果、なかったこととなっている。
そして今日、そうした記録や伝達の手段として、映像や録音物という他の多様なメディアも増え、全ての情報はデジタル的ファイル化され、CD-ROMのようなものやDVD、さらにはUSBメモリーのような簡易なカード式のものまで登場している。本や文書類等従来からの文字を印刷した紙ものの価値の凋落が叫ばれているが、どんなメディアと手段であろうとそこに記録されていないことはなかったことであるのに変わりはない。
何でこんなことを言うかというと、もう一昨年になるが、とある高齢の広告評論家の方と親しくお話する機会があり、戦後の闇市の話が出て、その人は今と当時と何が一番違うかという当方の問いに、臭いだと即答してくれた。彼は敗戦後の東京で、もう成人の年齢で生きていたわけだが、ともかく当時は焼け出されて住む場所どころか食べ物も着るものもなく、まさに着のみ着のまま皆ともかく何とか生きていたから、風呂に入ることも洗濯することもないわけで、誰もが浮浪者と同じようにシラミとフケ、垢にまみれてともかく臭かったと語ってくれた。今は皆清潔で街に臭いがないけれどあの戦後の焼け跡の何とも言えない臭いだけは今も忘れられないとしみじみ語ってくれて、はあ、そうなのか!と驚くような気持ちで新たな知識を得た。
それまで、自分は当時の記録フィルムやモノクロ写真などではその焼け跡の光景はよく知ってはいた。また本や小説では読み知ってはいた。しかし、当時を生きた人から直接お話を伺い、まず「臭い」が違うという証言を訊くまではそのことに全く気がつかなかった。それは想像力の問題もあろうが、映像にはそもそも臭いはなく、当時のことを記した記事、記録でもくさい臭いについてはわざわざ誰もふれていなかったのだ。
思うのだが、どれほど情報伝達のための手段が発達し、居ながらにして遠方の人と瞬時にコンタクトがとれるようになろうとも、人と人との間は文字情報よりも電話などの会話、さらにそれより確実なのは直接現実に会って話すことが大事ではないのか。そして過去のこと、例えばある時代があり過ぎたことについては、もし当事者や当時生きてそのときその場にいた人が健在ならばまずは会って話を聴くべきだろう。それを文字や映像として記録し保存していくのはまた次の段階、二次的な話であり、ともかくまずすべきは当事者、時代の証人から話を聴くことだ。そこで文字になっていないこと、語られていないことが語られ知ることができてこそ真に歴史体験は継承されていくのだと考える。
言葉にならならないこと、言葉に出来ないことこそが実は真に大切かつ重要なことなのかもしれない。16日はあの関西フォーク、熱いフォークソングムーブメントの渦中にいた中川五郎氏にあの時代のことを訊ねてみたい。ものの本にはない、文字になっていないことがきっと語られるに違いない。実はそのことこそがいちばん大事なこと、「うた」なのである。