どうして旅に出なかったんだ
外はまた雨がしとしと降っている。寒い。天気予報では奥多摩の方では雪になるかもと言っていたが、いくらなんでもそれは困る。まだ11月なのだ。庭のイチョウも散っていないのに。いろいろな思いが頭を駆け巡る。特にこんな雨の日には。
振り返ると、自分が旅というものを意識したのは、高校生になった70年代半ば、友部正人の出たばかりの名盤「どうして旅に出なかったんだ」を聴いてからだ。それまで家族一緒での家族旅行はしたことはあっても自分一人で見知らぬ土地へ行く、「旅」というものはしたことがなかった。
そのアルバムの表題曲は確かに衝撃的だったが、実はそれよりもその頃週末ごとに入り浸るようになっていた吉祥寺の喫茶店ぐゎらん堂で、テーブルに置いてあった来客が記すノートに、そのアルバムを聴いてオレは早速関西から東京にヒッチハイクしてやってきた、と書いてあったのを見たことが大きい。ガツーンと頭を殴られた気がした。
その頃のディランばりに、うねるようなロックバンドをバックに、保守化していく70年代の軟弱な若者を激しく糾弾する友部の唄声に、レコードに針を落とすたび頬をひっぱたかれていたようなものだったが、実際にそれを即実行した同世代の若者がいるということはショックだった。ならば自分だって旅に出なくてはならない。
そして大阪まで大垣行きの夜行列車に乗ってキセルして旅に出た。そのときのことは以前にこのブログに書いたから繰り返さない。目的は天王寺野音で開催されていた春一番コンサートを観るためで、東京から買ったばかりのでかいステレオラジカセを抱えてライブを録音しに行ったのだ。格安の青春18キップはまだなかったはずだ。
可愛い子には旅をさせろと先人が言うとおり、旅は東京の田舎に住む一高校生の人生観を大きく変えてくれ世界は一気に広がった。その頃の大阪はかなり危険で今よりはるかにエキサイティングだったし、天王寺駅の構内でラジカセを枕にダンボール敷いて寝ることだって、野音で知り合った年上の人に教わった。金は全然なかったから、野宿もしたしオールナイトの映画館でうつらうつらして夜を明かしたりもした。
それ以降、何度も関西にキセルして行ったし、行きだか帰りの列車内で向かい合わせになった若者と意気投合し友達になり、名古屋のそいつのアパートを訪ねたり、そいつが東京に来てウチに泊まったりしたこともあった。旅とは移動であり、出会いであり、別れであった。その人たちのことはもう名前も顔も思い出せない。
今でもそんな風に、あまり目的なく急ぐことなくともかくどこか知らない場所、別のところに行ってみたいと強く思う。若かったからそれが出来たということもあるが、今だって時間と環境が許すならばそれはやれる自信はある。しかし、友部がレコードで唆してくれぐゎらん堂に行ってなかったら、自分は旅に出なかったのだから、伝説的な70年代の春一番も生で観ることはなかっただろうし、今ではたった2年二回だったが東京にいた十代の少年がそのライブを体感できたことは密かに何より誇りに思っている。
それはその旅の帰りだったのか、誰と一緒だったのかもう記憶にないのだが、季節は春で、東京に向かう帰りの鈍行列車の中だった。検札がくることを常に気にしていたはずなのに、疲れていたのかともかく眠くてそいつと二人で春の陽射しを浴びながら窓にもたれてともかく日がなうつらうつらしていた。鈍行だから乗り換えないと次へ進めない。長い長い静岡県内にはあちこちに菜の花が咲いていた。ホームのベンチで列車が来るまでまたうつらうつら、そして乗り込むとまた眠って、それを繰り返して東京に戻った。
旅ではいろんなトラブルや失敗も数多くあったが、今でもふと春先になると思い出すのは、何も起こらなかったそのひたすら眠り続けた帰路のことであり、気持ちよく暖かな春の陽射しを浴びてゴトゴト揺られていた旅が今はただ懐かしい。そんな風に移動だけでのんびり一日を費やす旅はもう二度とできないだろう。十代の自分はきっと今でもその鈍行列車の中で揺られて日がなうつらうつらしているような気がする。
その友部のLPは、発売後、差別的表現があるとかですぐ発禁というか、廃盤になってしまい、後年アルバムタイトルとジャケットも変えて再発された。これがそのCDのジャケットだ。やはり自分にとってはLPのが一番しっくりくるが、残念なことに学生時代うっかり手ばなしてしまい、以来何十年も捜し求めているが未だみつからない。