うたの復権とシンガーソングライターの台頭
それまでの日本の音楽、洋楽に対しての邦楽とは、歌謡曲という言葉でほとんど全て括られよう。早くも60年代半ばに若者たちによるバンドブーム、つまりグループ・サウンズなるものが起こっても、オリジナル曲を演奏するバンドもなくはなかったものの、GSとは、レコード会社主導の流行であり、職業音楽家たちが曲を提供していた歌謡曲の一種でしかなかった。
ところがフォークソングとは、そもそもインディーズレーベルである、秦政明が仕掛けたURCが出発点であるように、従来のレコード会社、レコ倫らとは、明らかに異なる土壌から、自然発生的に生まれてきた。それ以前の歌謡曲のように、プロの手から与えられるのではなく、素人である若者達自身が、歌いたい唄を自らの手で作り、自らが歌う、というポリシーがまずそこにあったと思える。
高石友也と岡林信康という、ハンサムでも音楽教育を受けたわけでもない、ごく普通のどこにでもいる垢抜けない青年が、ギター1本で自ら曲を作り、自ら歌いたいことを歌っていく。そしてそれが支持をうけ人気者となっていく。その姿を見て、観客であった若者もまた、あれなら自分でもできる、と同じようにギターを手にし、フォークソングムーブメントは広がっていったのだ。
もちろんそこには当時の世相が大きく関係していて、体制や権力、既製の権威や常識に抗う若者による対抗文化の登場と、社会問題化していた大学紛争などの学生運動と、ベトナム反戦、反米闘争の市民運動が高揚期であったこともブームとしてのフォークを大きく支えた。そうした「運動」の手段の一つとしてフォークは利用された側面も強くあったが。
幼いながらも当時を知る者として、そんな時代背景はあったとしても、このときのフォークソングムーブメントというものは、うた本来のあり方、あるべき姿を商業主義のレコード会社から、再び民衆、大衆の手に取り戻す運動であったと今も思えてならない。うたの復権である。
そしてそこには、音楽を世界規模でみると、シンガーソングライターの台頭が多大な影響を及ぼしていた。