できの悪い困った映画「グーグーだって猫である」。
久々に映画の話。映画は観ていないのではなく、一応会員となっているギンレイのは、去年2008年はかかった映画はすべて漏らさず観た。だから当然書きたい映画の話もあるのだが、直近のライブや音楽ネタとかが優先されて結果、書きたくとも書けずにタイミングを逸した映画がかなりある。
先だっては、「歩いても歩いても」と「たみおのしあわせ」の邦画二本立て特集は、実は原田芳雄特集だったと観てからわかったが、今回のも何のことはない、小泉今日子特集と言うべきか、さもなくば、吉祥寺をはじめとした東京風景をモチーフとした映画のカップリングということか。
双方ともつまらなくはなかったのだが、いろいろ思うところがあり、特にグーグーに関しては辛口の意見を書く。
監督の犬童一心監督は、8ミリ時代からよく知り、私的盟友という気持ちを抱き、常にその動向が気になっている人であり、これまでも、「ジョゼ~」「メゾン・ド・ヒミコ」他社会から落ちこぼれたヘンな人たちを主人公にして珠玉のような心に残る傑作をものにしてきた才人である。反面、作品数の多さの分だけ駄作、やっつけ的仕事も多くムラも多いのだが、今回の大島弓子のマンガ化は、その原点に戻って、まさに彼しか撮れない作品だろうと大いに期待していた。
が、今回のこの映画、失望以前にこれはアンフェアというか、問題だと胸を痛めざるえない。もちろん、動物好きとしてはホロリとさせられたり、決して一概につまらなくはなかったのだが。
増坊も、監督の犬童も男ながら熱烈な大島弓子の描くマンガのファンであり、その世界に昔から深く魅せられてきた。実際、犬童の映画のルーツというか原点は大島弓子的少女マンガであり、過去にも大島作品を映画化してきたし、それは、ジョゼやヒミコに色濃く反映されていることは指摘するまでもない。だから今回のグーグーもいよいよその本丸に乗り込んで本領発揮となるまさに面目躍如の場であった。しかし、これは失敗作と言うしかない。
元々この原作マンガ自体は、角川書店発行の本の宣伝誌で長らく連載されている私的エッセイマンガであり、ストーリーらしいストーリーはなく、大島弓子の身辺雑記のように、グーグーをはじめ、その他拾った子猫の飼い主を探した話の顛末とか、同居している動物たちのことを中心に些細な日常を綴っただけの数ページの読みきり連載なのである。増坊は連載当初から読んでいたが、あまりに変化のなさに半ばうんざりして、もういいかげんにしろ、という呆れ気分で読み続けている。
だからこれを犬童が映画化するという話を聞いたとき、彼しかいないともおもったが、果たしてこんな話が映画になるのだろうかと案じていた。
そして、今回、大島弓子原作「グーグーだって猫である」というマンガと同名の映画が完成公開となったわけだが、これこそは看板に大いに偽りがある。というのは、元のマンガとはかなり違うエピソードがやたら多いのである。
もちろん、マンガと映画は違うものだし、映画化するに当たって、話を膨らませたり、解釈の仕様もあるだろう。それは否定しない。しかし、映画では、大島弓子と思しき中年の少女漫画家、小島麻子先生と猫のグーグーが主役のはずなのに、アシスタントの上野樹理演ずるナオミという原作にない女の子が実質主役であり、彼女の恋人のフォークデュオをやっている男のとの恋愛関係とか描かれ、肝心のグーグーも麻子先生の出番もそれほど多くない、。しかも原作にない麻子先生の恋愛まで盛り込まれ、これは羊頭狗肉とは言わないが、同名マンガのタイトルを名乗るのはおこがましいといわざる得ない。まあ、それでも基本線は原作に基づいて、彼女の病気も含めて原作を無理無理に膨らませたと言えなくもないかもしれない。
しかし、元々が大島弓子が自ら私ごとを書いた私マンガであるならば、それをそう勝手に解釈して話を作るのはそもそも僭越だとファンとしては考えるし、まあ、それは、彼女自身ではないとして小島麻子という映画の中のマンガ家だとするならば、どうして大島弓子の過去のマンガをそっくりそのまま映画の中で流用するのだろうか。そのことが本当に不思議でならない。この映画の観客はすべてが大島弓子のマンガファンではないはずなのだから。
公私混同と言う言葉もあるし、虚虚実実という言葉もある。が、この映画は、虚実混濁と言うのか、いったいどこまでが大島弓子のことで、小島麻子のことなのか極めて曖昧にされている。個人的に何よりも許しがたいのは、映画中何度も大島弓子の過去の作品がそのまま原題どおり「採録」紹介されるのはともかくも、麻子先生の病気回復後の作品として、大島弓子のマンガを、コマ撮りのようにそのラストまでそっくりそのまま観客に読ませてしまうのは理解に苦しむ。あまりに芸がない。
いくら犬童が大島弓子ファンだとしても映像に携わるものとして、これはマンガに丸投げであり、映画監督としての責任放棄、逃げではないのか。また、そこまで大島弓子に頼るならば、勝手に増やしたエピソードは失礼であり一切不要ではないか。
マンガはマンガであり、映画は映画なのだ。マンガ家の生活を描くとしても、原作のマンガをそのまま用いず、その映画の中で、映像ですべて描くべきであろう。その意味でこの映画はアンフェアであり、架空のマンガ家の話ということで映画化を許諾したはずなのに自らのことを敷衍して描かれ、、大島先生自身も頭を抱えているのではないかと心配した。それにグーグーもあんまり可愛くないし出番も少ないし。まあ、大島弓子役としては小泉今日子意外、現在のところは確かに思いつかないが。当人役の媒図先生が浮きまくっていたのがご愛嬌か。いいなあ、先生、グワッシ !