「今」を歌うことこそフォークソングだと考えるが・・・
もしも理想のコンサート、成功したライブというものがあるとしたら、客の入り以前に、それは演者も観客もそれぞれ双方が満足できたものであろう。しかし、アーチスト側の気持ちはともかくも見る側としても心から本当に満足できたコンサートにはなかなか出会えない。
コンサートというものを考えるとき、歌い手の伝えたいもの、唄いたい曲と、観客が求めているもの、聴きたい曲とがうまく合致すれば最良のステージが生まれるはずだろうが、現実にはそううまく進むことはなかなかありえない。
デビューしたてのミュージシャンならば両者の思いは幸いにして当然一致して歌いたい曲と聴きたい曲とにくい違いは起こらない。しかし、何十年もキャリアがあるベテランの歌い手だと当然沢山の持ち歌があるわけで、それをどう披露していくか、自らの意向と観客の希望との間をどう埋めていくかが課題となる。
ファン、観客側が望むことが何かというと、やはりレコードなどで聴き馴染んできた往年のヒット曲、名曲の数々なのだが、唄う側からすると、それらは過去のものであり、そればかりに応えていたらば懐メロメドレーとなってしまう。できれば、そんな昔の唄い飽きた曲なんかよりも最新の曲、現在気に入っている曲を歌いたいし、聴いて欲しいと思うものだ。そこに齟齬というか、常に溝が存在している。
日本のフォークシンガーの場合、エンターテーナー系というのはヘンだが、平気で往年のヒット曲、俗に代表曲と呼ばれ、世に知られている曲をどのステージでも唄う人と、絶対にそうした過去の曲は唄わない人とに別れるような気がする。高石友也は数年前観たときは、ちゃんと「受験生ブルース」をある意味で臆面もなく唄ってくれたが、高田渡は後半生はまったくというほど「自衛隊に入ろう」は唄わなかった。どちらが正しいとか良いということではなく、それもまた各自のポリシー、こだわりかとは思うものの、ファンとしてはやはりできれば昔の歌でも今また当人が歌うのを聴きたいと願うものだと思う。
つまるところ、演歌、歌謡曲的要素の強い歌い手は、いきおい過去のヒット曲中心のコンサートになって、その中で新曲も披露されるという割合となるだろうし、逆にフォーク系の歌い手の場合は、今の、近年の唄が中心とならざるをえない。何故なら、シンガーソングライターであるフォークシンガーの場合、彼の「うた」とはどうしても今のことを歌うことに他ならず、いくら名曲であったとしても「過去」のことを歌うのには違和感、抵抗感があってしかるべきだからだ。
翻って古川豪ほどのキャリアがあり、多くの多様かつ秀れた楽曲を持つミュージシャンの場合、ライブという限られた時間の中で何を唄い、観客に伝えていくかと考えると、やはり「今」のことにならざるえない。それこそがフォークシンガーのあるべき姿だと思うし、懐メロ番組ではないのだから今のうたを唄うしかない。だから今回のライブでは商店街の歌や彼の暮らしぶりに関しての歌や語りが当然多かった。それは良かったし理解できるが、個人的にはもう少し過去の名曲にも時間を割いて欲しいように思えた。素晴らしい曲が沢山あるのだから今の客にも披露しないともったいないとさえ思ってしまった。
フォークソング、シンガーソングライターというものを何十年も観、聴き続けてきて、ずっと長い間考え続けても答えの出ないことがある。
ファンと言うのは一度その歌い手を好きになってしまえば、特に日本のフォークシンガーとの関係においては全人的に愛してしまうものだから、歌い手にたいしては盲目的に従いすべてを肯定し受け入れてしまう。しかし、そのことは逆に言えば閉鎖的関係となってしまい、一見さん的新たな観客が入りにくく結果として拒むことになるかもしれない。実はそのことこそがフォークソングの客層が高齢化し衰退していった一因でもなかったか。
岡林的な完成されたマニュアル化ライブが良いとは絶対に思えない。が、その手法は初めての客であってもある程度まで常に一定のレベルまで満足はさせるものだと思える。それもまたプロであり、そうしないのもフォークシンガーの場合プロだと考えるが、自らの「うた」に忠実であるということと、より多くの観客を満足させることはまた別な次元のことではないかと考え続けている。
日本のフォークとは観客の期待に応えることと、自らの「うた」へのこだわりとの間でずっと揺れ動いている。歌い手が自らうたを作り唄い続ける限り、この課題はおいそれと埋まりそうにない。実はそれこそが「うた」であり、フォークソングなのだとわかってもいるのだが。
このところフォークソングに関して、だらだらと思うことをつらつら書いてきたが、答えのでないことを書き綴ってもしようがない。当分の間、音楽のことはお休みにして別な話題に移ることにしようと思うことにした。少し疲れました。