みほこんから急遽メールが届き、彼女も出るコンサートが谷保の団地であるというので、近所ということもあり慌てて雑用を片づけ夕方から出かけてきた。
が、青梅線が立川の手前で信号事故だか何だかで数十分も停まってしまい、会場についたらみほこんが終わったところで、結局最後のほうしか観れなかった。まあ、そんな日もある。
終演後、後片づけを手伝い、残った出演者や観客たちとジョナサンであれこれ楽しく歓談した。彼らと出会えてまた新たな今後につながる出会いを得たと思った。皆同じ志を持つ仲間たちであった。みほこんのおかげである。
11時近く店を出て散会。みほこんと駅へ向かい、南武線谷保駅では彼女の帰る方面はすぐ電車は来たのに、立川方面はえんえん20分待たされて、立川でも青梅線の連絡悪く、谷保は自転車でも行ける距離なのにウチに着くまで一時間近くかかったのにはうんざりした。そう、そんな日もある。おかげでホームでまた一曲うたができた。
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第45回詩人会議新人賞は田中茂二郎氏の「有馬敲論」★秋村宏氏から賞状と記念品を授与される
田中茂二郎氏。
★受賞者全員で記念写真※携帯で撮ったので一部欠けた方がいらして失礼。
★土井大介氏が祝賀会の音頭をとって、乾杯後ゲストの
有馬敲氏が挨拶した。
★詩神に導かれて新たな出会いが
雨の土曜日、京都の詩人・有馬敲氏に誘われて詩誌「詩人会議」の総会と授賞式とその後の懇親会にも参加してきた。とても有意義な出会いであった。その報告をすこし。
有馬さんとは先年、オフノートが企画したゴールデン街劇場での関西フォークを回顧する催しで出会って以来懇意にして頂いている。昨秋は東京両国フォークロアセンターで、フォークシンガー岡大介らと全詩集刊行を記念して詩の朗読とフォークコンサートを企画できたし、こちらが京都に行けばご挨拶に伺い、彼が東京に来られるときはカバン持ちとして同行する間柄となった。今日もかねてよりそのお知らせがあり、昨秋以来お会いできるのを心待ちにしていたのだ。
有馬さんが今回来られたのは、詩誌「詩人会議」の新人賞、評論部門に田中茂二郎という人の『有馬敲論 ことばの穴を掘りつづける』が入選し書き手とも旧知の関係でもあられたのでその授賞式の出席が目的であった。
群れることを好まず詩壇とも距離を置く有馬さんであったが、「詩人会議」とは以前より特別会友として関係が深く、まして新人賞受賞作が彼のことを論じた評論だったこともあり、今回の参加となったようだ。
会場は日本青年館の一室で、自分は信濃町から歩いてその集いのあるフロアに向かった。ちょうど会員方々による総会の最中でもあり、運営に関して会議中で熱い討論がさかんに交わされていた。まさに“詩人会議”だなあと思った。
受付で有馬さんを呼び出してもらい一階の喫茶店に降りて近況報告など雑談を交わして再び会場に戻り自分もまた受付で名札をもらい懇親会にも参加することとなった。
有馬さんからさっそく出たばかりの今月号の「詩人会議」誌を頂き、田中氏が書かれた『有馬敲論』を総会の間に熟読した。決して長文ではないが、過不足なく実にこの詩人の足跡を丹念に調べ追いかけ仕事を掘り下げていることにまず感心した。有馬敲は高田渡のうた「値上げ」の詩人として世に知られてはいるものの、残念かつ不当なことに詩壇での扱いは決して高くはないのではと思っていた。彼に関して個々の評論は多くあるはずだが、知る限り今年傘寿を迎えるこの詩人の全仕事についてその全体像を描いた評伝、評論はなかったはずだ。それがようやく今回、田中茂二郎氏によって、有馬敲論が書かれ世に出たことをまず心から喜びたい。
この老詩人の仕事は非常に多岐にわたり、「値上げ」、つまり原題「変化」など初期のコミカルな世相風刺詩だけにとどまらず、オーラル派として詩朗読の活動、さらには海外の詩人との幅広い交友と遠征、近年の生活語詩運動と老いてなお抜群の行動力で多彩な活躍を続けている。その上に未踏社から出している叢書『有馬敲集』もついに第20巻を超えた。この叢書は彼の若き日の日記から発表された詩、評論、小説に至るまで全仕事を自身がまとめあげ再編して出しているもので詩文学史のみならず現代史の資料としてもとても面白く貴重なものである。今や有馬敲の活動は存在そのものが全体詩人であり、刺激的かつとても示唆に富んでいる。こんな八十歳は知る限りいない。
詩というものが言葉で人の心に風穴をあけるものだとしたら、今や彼の存在自体が詩になっている。会えばいつも良い衝撃を受ける。そんな素晴らしい方とお近づきになれたことを光栄に思うし、会うといつもその後は興奮し、拙いながらも詩や音楽が自分の中からも次々と湧き上がってくるのである。
今回、歴史ある第45回詩人会議新人賞の評論部門に入選された三重の田中茂二郎氏とも親しく言葉を交わす機会を持つことができた。彼も昔からのフォークソング好きで、なかでも高田渡ファンとのことで意気投合してあれこれ話も大いに弾んだ。また他にも作詞活動を続けているグループの方との出会いもあり、新たな世界がまたここから広がった日となった。秋村宏、土井大介氏ら名だたる詩人方々を知る機会ともなった。
授賞式が終わり宴はまだまだ続いていたが、中途で会場を抜け出し、小雨そぼふる外苑を有馬さんと足早に歩き信濃町に向かった。水道橋まで電車に乗って後楽園前、外堀通りに面したビジネスホテルに有馬さんを送り自分の役目は終わった。道中たくさんの貴重なお話は怠け者の若輩を十二分に叱咤激励してくれた。
大型連休に関西で受けた心の傷は、京都の老詩人と過ごす時間のうちにやんわりと癒された。もう過ぎたことはどうでもよい。自分にできる自分にしかできないことをしっかり寸暇を惜しんでやっていこうと誓った。
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世界の終りから世界はまた始まる。
今回のバスツアーには、地元福島県に実家のある方も参加されていて、既に何回もこちらには帰省し震災後の状況を詳しく把握されていたので我々の案内人としても動いてくれた。その方曰く、福島の場合、大震災の被害といっても地震そのものは二割で、津波による被害が八割だとバスの中で語られていたが、そのことをいわきの浜に立って痛感した。
ネビル・シュートの原作で世に知られている近未来SFに、『渚にて』という小説がある。原作も読んだが、映画化もされていて昔テレビ放映されたのを観たような記憶がある。核戦争か何かで人類が全て死に絶えた世界を描いた話だったかと記憶する。映画のイメージなのか原作のものなのかわからないが、巨大津波に襲われた海岸地区を歩いてふとそのことを思い出した。まさにそこは、『渚にて』の世界そのものであった。
津波に呑まれ土台だけ残して跡形もなくなった家もあるが、瓦礫と化しながらもほぼ残っている家もかなりある。が、壊れた建物だけで人の姿は全く見えない。聞こえるのは波の音だけで、空には鳥の姿もない。遠くに人影が見えてもそれは平井君ら今回のバスツアーで訪れた人たちだけである。
「世界の終り」という言葉が頭をよぎる。ここは廃墟となっていしまった。さんざんSF小説やパニック映画で描かれてきた人類の消えてしまった世界がここにあると思った。ここには多くの人たちが日々暮らして平穏ながらもささやかな幸せを大事にして生きていたはずだ。そうした人の営み、平穏な日常を巨大地震が引き起こした大津波が一瞬にしてすべてをさらい破壊し奪ってしまったのだ。悲しみより怒りに近いやるせない思いがわいてくる。自分は憤っていた。
しかし帰り道、水産加工場の跡地には、頬かむりした地元おばちゃんたち数人が来ていて何か片づけ作業をしていた。おそらく工場で働いていた人たちかもしれない。彼女たちにお辞儀すると言葉もないながら泣いてるようにも見えるくしゃくしゃの満面の笑顔を返してきた。彼女たちは挫けも絶望もしていない。震災前と変わらず明るく元気であった。それを見て、ああこの笑顔があるならば、大丈夫だ。世界はまた再びここから始まると思えてきた。
ジョー・コッカーも歌っているビートルズの曲に、ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ/With a Little Help from My Friends というのがあるが、被害のあるなしに関わらず被災地の人たちと心を一つにして、まずは自分のできる、ちょっとした助け、援助から何かを始めたいと今も考え続けている。以下、もう少しだけ被災地の画像をアップしてこの項を終りとしたい。
人が消えてしまった家のがれきの庭にも藤の花は咲き、季節は再び移り変わっていく。
★被災地の方々と思いを共にしなければ
今、あの大震災の日から時間がたち、かの地を訪れたときの画像を自ら今また見直して、これは単に物見湯山的見物ではないのかと自問している。ほとんど何も被害のなかった安全な地にいたものが今も変わらない平穏かつ満たされた生活を送りつつ被災された地のことを身勝手にもネットに「報告」していることを恥じ入る気持ちもある。
しかし、この大震災の全容は、今もまだ記録も報告もされていないし、復興、復旧のためにもその実態はもっともっと世にしらしめる必要があると信ずる。そしてこれらのことは地震国、いくつもの異なるプレートの上に乗っかっている日本という国にはいつまた近くどこかで必ずや起きることなのである。そのことを誰もが深く認識すべきであるし、巨大津波に襲われてしまえば人智の限りの対策を尽くしたとしても自然の力の前に人間はどれほど非力であるか思い知らねばならないと考えた。科学は万能ではないし、この世には絶対も永遠も存在しないことに気付かされた。
さて、今回の大震災、原発事故の問題をさておけば、復興の最大の障害は巨大津波や地震の被害で生じた「がれき」の処理であろう。いわきの浜でも幹線道路沿いにある、さほど津波の被害はなかったと思われるような家でももはやそこに住むことは断念されたらしく多くの建物に所有者自らが貼りつけた家の「解体」を許可し依頼する板が残されてあった。
それには「この建物は私のです。解体を承諾します。撤去をお願いします。」とあり次に電話番号と氏名が書かれてある。しかし、海岸沿いの家々、原型を留めていても津波に破壊され放置されたままの家々にはそうした札や張り紙は一つも見当たらない。おそらく住民は津波に流されたまま未だ行方不明なのかと案じて胸が痛む。行政としては壊れた車などと同じく所有者の許可なくして勝手に処理はできないだろうからその扱いにも苦慮するだろうと考えた。
★農家で言えば庄屋か豪農のような立派な古めかしいこの家も、解体を諸諾する札が貼り付けてあった。玄関の中も靴や置物などあの日のまますべてが残されたままである。
★こちらは海沿いにある建ててまだ間もないと思われる、所有者が消えてしまった家々。海に面していた一方向から爆風を受けたかのように二階までも破壊されてしまっている。大津波の巨大な力にただ圧倒される。
★防波堤のすぐそばに建つ、この瀟洒な白亜の館は、コンクリート製ということもあり外目にはほとんど被害は見受けられなかった。しかし中は津波が通り抜け、住んでいた人たちはさらわれてどこかに消えてしまったのだろうか何の張り紙もなかった。そして大津波を運んできた海。穏やかでとてもそんな巨大津波がこの海から来たとはイメージもできなかった。