20年前のタイムカプセルを開けて
前回の話の続き。
引越しにあたり、引き取りに来てほしいと言われた増坊の私物とは、主に雑誌や本、録りためたビデオテープ、それにCDとレコードが少し、他は衣類やスニーカー類などで、四畳半の一軒幅の押入れの中、上下二段にびっしり詰め込まれていた。一部は天袋からも見え隠れしている。
そもそも、18年前、谷中からここへ移った際に、谷中のアパートにあったものを一切合切持ち込んで、とりあえず押入れの中に突っ込んで、後でおいおい整理していこうと考えたらしい。
しかし、間もなく自分はここを出てしまい、彼女もまた、何かと忙しくて押入れの中を片付けることもせず、押入れの中身は封印されたまま18年の歳月が過ぎた。そして、今回引越し騒動が起きて、開けてみたらば、増坊の私物がどーんと出てきたというわけだ。
彼女はときおり思い出したかもしれないが、増坊は完全に忘れていた。実家に戻ったとき、きっと大事なものだけは持ち帰ったはずだから、大方はゴミではないが、特に大切な必要なものではなく、処分されても仕方のないものであった。
だから、連絡があったとき、もういらないからそっちで全部処分してくれていい、と放棄しても良かった。しかし、彼女がこれまで捨てずにとっておいてくれたわけだし、ましてそもそもそこに入れたのは自分なわけで、入れた責任がある。捨てるにせよ、何にせよ、一度は見てみないとと思い、こちらも改築工事を控え、超忙しいのに、引越しでごった返す彼女のマンションへと向かったのだ。
結局、先の月曜と水曜の二日間出かけて、初日は、彼女のゴミだしを手伝い、溜まった古新聞や不要雑誌類を束ねて、大量に三階から下へと降ろし、さらに小雨の中、一番近くのゴミ収集所までうんうん運び、終電間際に何とか帰れた。そして、水曜日には車で行き、詰めるだけの私物を載せて重量過多でふらつきながら帰ってきた。
増坊のマイカーは、軽ワンボックスタイプのライトバン、スバルのサンバー・ディアスなのだが、荷台どころか後部座席も崩れるほど一杯に雑誌を平積みし、その上にビデオテープの箱、さらに衣類等積み重ね、完全に後ろは見えなくなるほど天井まで積み込んだ。タイヤはこれまでで一番潰れてぺちゃんこだった。
行きは国立インターから中央高速~首都高で1時間で行ったが、帰りは飯田橋からの首都高に入りそこね、結局、一般道で青梅街道を走って帰ってきた。今回、初めて経験したことだが、車も自転車と同じであまり重いとハンドルがとられてふらつくので大変なのだ。高速へ入っていたらかえって危険だったかもしれない。おまけに疲れで目もかすんで、結局安全運転で2時間以上かけて帰ってこれたが、過去の重さで事故を起こしていたら笑い話にもなりゃしない。
私的20年前の話
何か、このところパソコンの文字入力機能が調子悪く、変換が狂うことがある。書けるところまで書いてみるが、途中で終わっていたら、トラブルのためとご推察願いたい。
何事もそのとき、その場で対処、処理していくべきところを、面倒だからと判断停止し、“とりあえず”適当にどこかに仕舞ってしまったり、ひどいときは放り出したままにしたりするのは、老親だけの性向ではない。彼らの息子の増坊だって、その傾向を強く受け継いでいるから、根本的にモノは減らないし、片付けは進まない。
実はごく私ごとなのだが、今から約20年前の話を書かせてもらいたい。先に書いたこのところの「多忙」の理由なのだ。
それは1980年代の後半、終わり頃だったと思う。増坊は当時付き合っていた女の子と一緒に都内で小さなアパートを借り、そこを事務所兼仮住まいとして、イラストや雑文書きの仕事を始めた。来る仕事は何でも拒まず、公開映画の紹介から少女マンガまで分担してやっていた。
場所は台東区、谷中で、近年では、「谷根千」として、人気高い下町的気質が強く残る庶民の町だった。町工場が残る一角の近くにあった日当たりの悪いワンルームの小さなアパートで、2年間顔を突き合わせて暮らした。
しかし、あまりに最初から狭かったのと、モノが増えてきたこともあって、居心地が悪くなり、二人には喧嘩も増え、心機一転のため、近くに引越しした。同じ駅の、歩いて5分もかからないところだったが、一応マンションの3階、六畳と四畳半のスペースに台所も別にある2DKだった。住所は文京区根津で、東大農学部の裏手にあたり、谷中に比べるとややハイソな、歴史ある落ち着いた良い町だった。
近くには、もう今はないが、サトーハチローの旧宅である彼の記念館があり、人気アイドル・中川“しょこたん”(誰それ?)の父である故中川“かっちゃん”もまだ健在で、近所に住んでいたと記憶する。
しかし、増坊は、そこではほとんど暮らさなかった。バブルがはじけて仕事が減ってきたことも今思うとあったのだろうが、様々な理由が積み重なって、結局うまく一緒にはやっていけなくなり、その部屋を出て実家へと戻った。それから約18年の歳月が過ぎた。
それ以降、彼女はそのマンションで一人で生活し、コツコツと仕事を続けていたのだが、先日急に連絡があり、引越しすることになったので、そこに置いてある増坊の荷物を引き取りに来てほしいと言われたのだ。そこで、久々に中に入り、昔の自分の私物に対面したわけだが、感無量であった。
《この話、もうちよっとだけ書かせてください》
“とりあえず”という思想の弊害
昨晩から冷たい雨がしょぼしょぼと今日も一日降り続いている。肌寒さを通り越してコタツがほしいほどだ。
昨日は、友人に頼んで来てもらい、車の中いっぱいの雑誌類を括って、借りている倉庫へと運び入れた。とりあえず、今は車の中は片付きホッとしている。今週は突発的事態が起こってしまい近来になく超忙しく、自分でもよく働いた一週間だった。その経緯は後ほど書こう。
さて、このところつくづく思うことだが、生きるとは、つまるところ「出会い」の連続に他ならないから、長く生きているということは、その「出会い」が必然的に増えるということであり、人との出会いのみならず、モノとの出会いもまたそのときどきの対処方が問われることになるだろう。
片づけをしていると次から次へとあきれ返るほどにこの家からはガラクタが限りなく出てくる。例えば、台所用品なら、割り箸類だけでも袋の黄ばんだ割り箸が入った箱がいくつもいくつも出てきて唖然とする。旅行先で出される歯ブラシ類も同じで、使わないのに持ち帰ってきたのが輪ゴムで括ってこれまた膨大に出てきた。布巾やタオル類もしかり。頂いたおみやげ、お菓子などの包み紙もまた。
こんなものは、それぞれゴミとして分別してすぐに捨てれば済む話だが、折り畳み傘ならそうした傘が何本も詰め込んであるダンボール箱が出てきて、すべてが万事この調子で、数限りなく、使っていないモノどもが埃を被って次々と現れてくる。だから片付けはいつまでたっても終わらないのである。
こうしたモノをとっておく習性は要するに例の「モッタイナイ病」から来ているわけなのだが、それと同時に、こうしたモノが溜まってくると場所をふさぐから、片付けなくてはならない。そのときに即捨てればよいものを“とりあえず”箱とかにまとめて入れてどこか見えない所にしまってしまう。この家では昭和30年代に建ててからずっとこれを繰り返してきた。
モノが溜まるとまとめて、“とりあえず”どこか見えないところにしまっておく。そうすれば、一応片付いたように見える。だが、実際のところ、根本的解決には全然ならず、モノはひたすら増え続けていたのである。
B型の母親よりもO型の親父の方にこの傾向が強く、何でも細かく分別しては、それぞれ箱などに入れてはどこか空いてる場所があればしまい込む。だらしなく、何でもあちこちに出しっぱなしにしてしまう母親よりは数段几帳面であるが、問題はしまったことをすぐ忘れて、では、いざそれを使うことがあるのかというと、しまったら最後仕舞いぱなしとなり、デッドストックとなる。
マンションなどの限りあるスペースに住んでいれば狭くなって捨てざるえないのに、一戸建ての、ある程度敷地にも余裕ある住まいだったことも災いして、ちょっとでも空いてる場所や隙間があれば、そこに隙間なくこうしたガラクタ類を詰め込んでしまう。
親父はネズミ年の生まれだから、そうした保存収納癖があるのかもしれないが、鳥でいえばモズみたいなもので、しまえばそれで忘れてしまう。そして後になって使うことも、いざそれが必要になってもすぐ出てくることも絶対なく、もし必要とならば、この家のどこかに仕舞って「ある」はずなのに、みつからないがため、結局新たに買い直したり、どこからか入手してさらにモノは増えていく。
モッタイナイ病も諸悪の元だが、それよりもタチが悪いのは、今は使わないけど、いつか使うかもしれないから、“とりあえず”しまっておこう、という発想ではないだろうか。大事なことは、「とりあえず仕舞っておく」と考えるのではなく、何事もそのときその場で、使うか捨てるか判断して溜めずに処理していくべきだったのである。ようやくその当たり前のことがこの期に及んで見えてきた。
ようやく家の解体に向けて、メドが見えてきた感じがしたのだが・・・・
先日のこと、とあるところから約20年前、自分が読んでいた本や雑誌、聴いていたカセットやCD、レコードが大量に出てきて、懐かしさと共に、この何日か哀しみに似た感情に囚われてしまっている。
もちろん、そんな感傷的気分にひたっているヒマはもはや一秒たりとてないわけで、今は本格的冬が来る前にどこまで進められるか、毎日すべてを差し置いて血眼で片付けに専念しているわけで、普段はそんな気分になることはない。その理由は後ほど詳しく書くとして、現在の進行状況をまずお知らせしよう。
増坊の家、壊すべきボロ家に今あるガラクタ類をなくすため、もう数年来、処分と移動に一家を挙げて取り組んでいる。ご存知のごとく遅々とした進み具合であったが、ようやくこのところモノはだいぶなくなってきて、あちこちにガランとした空間が目立つようになってきた。まだまだ確実なことは言えないものの、この調子で必死に今月11月頑張れば、年内に一部からでも壊し始められるのではないかと思えてきた。
しかし、それにしても片付けても片付けても次々と出てくるガラクタの多いことか。「もったいない」という言葉は最近では、世界的に普及してその思想は地球環境に良い事として知られているそうだが、度が過ぎるととんだ弊害があるとつくづく思う。
増坊の家は父親は戦争にも行った大正末の世代で、母親は疎開児童より少し上の、空襲体験を持つ昭和一桁だから、戦後の物不足の時代はもはや大人であり実際に苦労した”もったいない”感覚の体現者のような親たちだったから、ケチ以前に、どんな物でも捨てられずにともかくとっておく家庭であった。
その結果、親父はエンジニア的気質もあり電気関係の仕事をしたこともあったので、機械工具類のガラクタが物置いっぱい溜まり、母親は着道楽というのか、自分では新品は買わないくせに、バザーで買ったりや友人知人からもらったボロ衣類がタンスから溢れてあちこちに山をなすほど溜まり、息子は本と雑誌が捨てられずレコードのコレクターでもあったから増坊家はどこもかしこも足の踏み場がないような状態となってしまっていた。
そのため、使っていない部屋はいつしか物が詰め込まれ、次々と物置状態となってしまい、家族は部屋数が多い家なのに、狭い部屋で物に囲まれ仕方なく肩を寄せ合って暮らしていた。しかし、築50年の安普請は老朽化し、あちこちで傷みがひどく、雨漏りは常であり、大地震が来たら一たまりないと、阪神大震災以降は、さすがに改築の計画が家族団欒の話題となった。
しかし、溜まりに溜まった物の数が多すぎたのと、戦後から続く「もったいない病」が治らないために、片づけが全く進まず計画は10年近く延びて、ようやく3年前、苦労の末、半分だけ改築できた(第一期工事)。
だが、それは壊しやすい物置部分だから建ったのであり、未だ生活の拠点・本丸部分は残っていて、当初の工事開始予定より第二期工事は早一年近くも遅れて、大工にせっつかれていることはこれまで書いてきた。
大工に既に依頼してあるのに、工事が始められないのは、捨てるのがもったいないと溜め込んできたものが、この期に及んでもまだモッタイナイとなかなか処分できず、物がなくならないからで、もったいない病も軽いものならともかく、老親たちのように全身に転移してしまうともはや不治の病だから、医者も大工も見放す処置なしなのである。だからといってこのまま家が建たない理由にも言い訳にもなりはしないのだ。
たかが消しゴムにもコツがあるのだ
増坊は誰よりも不器用な人間である。つまり何だって下手くそなわけであり、商売が下手なのはともかく、男女交際だって、ひいては人生全般、生きるのだって下手だから、こうして年中バカな失敗を繰り返している。
前回、本の消しゴムかけに3時間費やした話に関連して、消しゴムのかけ方について少し書いておく。
たかが、消しゴムだろう? そんなの子どもの頃から使ってるのだからコツも何もないではないかとあざ笑う声が聞こえてきそうだが、ただの紙ならともかく、本などの綴じた書類に線引き、書き込みなどがあった場合、それを消すのにはコツというのか、まず頭に入れておかねばならない「鉄則」がある。
テストなどのときのペラ一枚の紙ならば、コツもなにもなく、どう消したってかまわない。消したい箇所に消しゴム(実は今はプラスチックなのだが)を押し付け、左手で紙を押さえて、何も考えずゴシゴシとこするだけだ。その場合の消しゴムを動かす方向を矢印で示すと ↑↓もしくは、←→とどう動かしてもかまわない。要はきれいに消えるかだ。
だが、本はそうはいかない。このやり方でゴシゴシ力任せにこすると、たいがいグシャッとページは捲くれて折れて、シワになってしまう。時に破けたりもして大変なことになる場合もある。
本の場合の消しゴムのかけ方は、必ず一方向だけに留めて、引いたら戻さず、いったん上げて、また同じ向きに戻してかける。つまり→→→、もしくは←←←と、常に同じ向きで消しゴムを動かさなくてはならない。
実は一枚の紙だってその方が安心確実なわけで、このことは、昔、マンガ家のアシスタントのようなことをしてたときに教わった。力任せに無方向に消しゴムをかけると紙は縒れて折れシワができるのだ。
本の場合はこれは鉄則であり、開いて真ん中の綴じ部分に対し、右側のページは、左から右へと、つまり内側から外側へと→→→と丁寧にかけていく。反対側の左ページでは、今度は逆に右から左へと←←←と消しゴムを動かす。そうすれば、絶対縒れてぐしゃっとなることはない。
もちろん、しっかり空いている手の指でページをぐっと押さえることも肝心だ。
なーんだ、そんなことか、それなら常識であり、誰でも知ってるって? ところが増坊は焦っていると、ついうっかりこのコツ=鉄則を忘れて、消す箇所が多いとたいがい1冊のうち、何回かはページを縒って折れシワをこしらえてしまい、かえって商品価値をなくしては悔やむのである。
人生にもコツがあり、成功する人とは、無意識的にこうしたコツを早くから理解して失敗しない人であろう。自分も含めたダメな人は、そのコツが分っていたとしてもまたついうっかり忘れては失敗してしまうタイプなのである。
たかが消しゴム、されど消しゴムなのだ。
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by masdart.corp
| 2007-11-08 22:39
| 本・古本