パリ雑感・終わりとして
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パリの話は終わりにしよう 帰国以来、古本のことからフランス人の民族性まで思いつくままに書いてきたが、今回で一応フランス関連の記事は終わりにしたい。また思い出して書くこともあるだろうし、何か問い合わせや感想でも頂けたら幸甚であります。
さて、出かける前に、フランスとは自由と個人主義の国だと書いた。そのことは今回行って改めて確認できた。しかし、この二つは実際のところ極めて微妙で難しいものだとつくづく感じた。一概に手放しで評価できないと言うのが今の気持ちである。
“自由”ということはお互いの人格を尊重し合い、干渉しないということに尽きるが、行きつくとすべてが“自己責任”に帰結し、他者に対する無関心、無関係に至る。また“個人主義”は常に利己主義と紙一重なのは言うまでもない。
フランスの国旗はトリコロール、青、白、赤の三色旗で、それぞれの色は自由、平等、博愛を意味していると聞く。“博愛”に関しては仏人は公共の場では誰もが親切で節度あり寛容なことから具現化されていると思える。“自由”についてはすでに書いた。問題は“平等”なのである。本当にフランス社会は平等なのか。差別はそこにないのか。
差別というのは差別している側は意識してそれをするのではなく、大方無意識な行いや発言が被差別者に差別感を植えつけているわけで、つまるところ、今日のようなフランス各地で移民系の若者を中心とした暴動が起こる背景には、そこにフランス白人特有の利己主義に限りなく近い“個人主義”と、自由という名の元に彼らへの“無関心と無関係”が長らく根底にあって、それが有色系の人々にとってフラストレーションとなって高まり、ついには暴動を起こすほどの大きな怒りの一因になっているのではないかと今回の旅から帰って考えた。
フランスの美徳・日本の美徳・後 フランスの美徳といえば、ともかく彼らは親切で上品だということだろう。
道を尋ねれば、まずたいてい誰でも親切に教えくれるし、ドアは後ろの人のために開けておいてくれるし、重たい荷物をいくつも抱えて休み休み歩いていたら、一つ抱えて運んでくれた。誰とでも挨拶を交わすし、ぶつかりそうになれば席や道を譲ってくれる。街中、社会の中におけるフランス人はみんな気さくでフレンドリーである。ところが組織の一員となると甚だ身勝手に思えることがある。それが個人主義社会ということなのか。
フランスにストが多いことは周知の事実だが、今回、増坊はついにそれに出くわした。しかも最終日、これから空港に向かおうとする日のことだ。空港へは郊外線で行くしかないので、ホテルから一番近くのメトロの駅で空港までの連絡切符を買った。窓口の駅員の男は売ってくれたが、その切符を自動改札に入れようとしたら、セロテープが貼ってあって入れられない。困っていたら駅員は何か言ったが、そのまま通れというポーズをしたので、おそらく自動改札機は故障してるのだと思い聞き返さずに中に入った。ところがこれは、ストライキだったのだ。
郊外線への乗換駅である北駅へ着いたら、空港へ行く線は途中までしか動いてなく空港へは行けないことがわかった。大きなスーツケースを抱えた人たちがみんな憮然とした顔で駅から引き返してくる。その一人に訊いて初めてストライキ中だとわかった。仕方なく、駅を出てターミナルでタクシーを拾って何とかギリギリで帰国便にかろうじて間に合った。今思い出しても腹が立つ。どうしてあの駅員はそのことを教えないのか。こちらは外国人の旅行者で大きな荷物を抱えていたのも見たはずだし、空港まで列車は動いていないのも知っていたと思う。だのに平気でその切符を売るのがフランス人なのである。おそらく彼は、自分の仕事は切符を売ることにすぎないと言うだろう。求められたから売ったのだと。客へのサービスはそれで完了していると。
日本社会ではまま“余計なお節介”が街に、公共の場所にあふれている。電車内や駅での放送もそうだ。以前、日本に来た仏人たちの集まりに立ち会ったとき、彼らが、その公共放送のことをウルサすぎると笑いの種にしていたことを思い出す。しかし、余計なお節介的相互に干渉し合い、気を配るのが日本の社会であり、それはまた皆が社会の一員、共通の構成員であると自覚しているからなのだろう。結果的に日本はそれでモノゴトがスムーズに動いている。少なくても日本の鉄道会社ならストライキをやっていること、空港まで動いていないことは窓口で教えてくれたと確信する。
日本社会には誰もが皆無意識に“連帯責任”のような意識を持っている。フランス人にはそれはない。あるのは各個人個人の責任だけだ。それが個人主義の国と言われる所以なのだ。
フランスの美徳・日本の美徳・中 日本人ならば、常に必ず口に出る言葉に、「お世話になっております」、「おかげさまです」がある。これは、本当に「お世話」になっていなくとも、またその人が実際は何もしてくれなくとも無意識的に発せられる。この言葉の底には、自分もまた社会という同じ集団としての一員という「自覚」があるように思える。これがガイジン、特に西欧人にはない。中でも知る限りフランス人には全くない。
これは、一番最初に、フランスへ行ったときのことだが、スーパーだったか、ショッピングモールだったか、中にいろんな売り場がある大きめの「店」に入ったときのこと。もう詳しく覚えていないが、何かの自動販売機があって、それに増坊はコインを入れた。ところが機械が壊れていたらしく、出てこない。で、目の前のパンの売り場にいた女の子に、この機械が壊れて商品が出てこないことを言った。ところが、彼女は、「私は担当が違う」と取り合わなかった。いや、「係員がいないからわからない」と言ったのか詳しくは忘れたが、ともかく、同じ店の中でのことなのに、ラチがあかず、彼女は素知らぬ顔してるし、結局大した額でもなかったから諦めざるえなかった。勿論、「責任者出て来い!」と昔の関西芸人のように騒ぎ立てれば何とかなったかもしれないが、似たような話は海外へ行った人から良く聞く。これが日本だったらどうだろう。
まず間違いなく、客から文句が出たら自分のセクションと違っていても大慌てで担当者を呼びに行った上で、「ご迷惑おかけしてすみません」と詫びるに違いない。何故そうするかというと、自分に責任がなくとも同じ共同体、つまり「店」の中での出来事だからだ。フランス人にはこれがない。自分の責任の範囲でしか責任を負わない。当たり前といえば当たり前だ。しかし、「店」という一つの社会の構成員なのだからこの場合は日本の方が正しいと日本人である増坊は思う。
お世話様とおかげさま。例えそこに気持ちがこもってなくともこうした言葉を無意識的に口にできるのは日本人の美徳だと思える。
フランスの美徳・日本の美徳・前 しょせん文化の違いなのだからここでこぼしても仕方のないことを書いている。
結局、増坊のラーメン熱望は、偶然通りかかってみつけた、裏通りにあったバスチーユ近くの小さな中華街の中の、ベトナム料理の店で、フォーという汁麺を食べて解決した。そこは、地元の人しか行かないフォーとボーバンという米の麺を使った二つの料理しかない専門店で、満席の狭い店内に相席で座らされ、奥から熱々のフォーが運ばれてきた。ちなみにラーメンのように茹でた米麺に熱い汁がかかっているのが「フォー」で、茹でた麺に冷やし中華のように具が載っているのが「ボーバン」であった。もう一度行っても果たしてその店がみつかる自信はないが、今回パリで食べた物の中で一番カンドー的においしかったのはこの「フォー」であった。生のもやしとミントやコリアンダーの葉が別皿に盛られて出て、それを入れて食べるというのも驚きで、熱い麺を啜りながらマジに泣きましたよ。
さて、古本のことからいろいろパリに関する諸々のことまで、今回の旅行で感じたこと考えたことなどをダラダラと一月近く書いてきた。最後にフランスの国民性というものについて知る範囲で書こう。フランス人、この場合、移民系ではなく、白人のフランス人とは実際どのような人たちなのだろうか。
彼らは公共の場においては礼儀正しく、挨拶も含めて極めて親切で上品だ。日本のように見知らぬ他人に突然怒鳴りつけたり、些細なことでキレる人はまずいない。酔っぱらって騒ぐ大人も見かけないし、泥酔するほど飲むサラリーマンなどいない。人種を大人か子供かで分ければ、仏人は大人で日本人はまだ子供だろう。しかし社会の構成員としては大人であっても個々の仏人を見ると些か首を傾げざるえない行動がままある。今回彼らのある対応に温和な増坊もキレそうになった。

★映画『アメリ』にも確か出てきた運河です。
ラーメン食べたい~パリの「中華」及び世界の料理について・後 これは、単に食文化の違いということに尽きるわけだが、西欧の料理は全体としてスープ類の占める割合が少ないように思える。何のことか説明しないとわからないだろうから説明すると。
日本の食事は昔から一汁一菜といって、ごはんにおかずが一品、それにみそ汁、これにせいぜい香の物というのが基本だった。これは、今日でも残っていて、定食には必ずみそ汁かスープが付いてくる。たとえ格安の牛丼チェーンだって、どこもちゃんとみそ汁はサービスされる。ごはんには熱いみそ汁、というのが常に基本だ。
ところが、西欧では、今回フランスで何回も食事はしたが、中華のランチを頼んでも当たり前だが汁物は付いてなく、そもそもそうしたスープ類、つまりラーメンのようなメニューが置いてある店自体がごく少ない。フランスの料理に至っては、前菜、メイン料理、そしてデザートという簡単なコースでも、前菜にサラダなどと並んでスープがある程度で、これを先に飲み干さないとメインの肉や魚が出てこない。日本のように一緒に食べ、飲むことはできない。
パリに数多い「中華」の店も、日本のように、オヤジが厨房でガンガン火を使ってその場で調理する形式ではなく、既に出来上がった各種料理が、ケースの中にトレイに入れて並べられており、客はそれから選んで量り売りしてもらい持ち帰るタイプだ。勿論、イスやテーブルもあるのでそこでも食べられるのだが、電子レンジでチンして出される。決して不味くはないが、何か物足りない。それはその場で火を使わないからだ。調理場は大概が地下か別にあるようで作っているのを見たことがない。すべてが電子レンジで温めるだけだから、熱い汁物は置いてないというわけである。パリにはこうしたテイクアウトの店が多く、フランス人は忙しいしあまり家で料理しないから多く利用している。
真剣に探せばどこかに、オヤジがその場で火を使って調理してくれる本格的中華料理の店もあるはずだと思うが、ベトナム料理とかタイ料理と看板に出ていても大概がこうしたレンジでチンの店で、パリ滞在中、安いこともあってよく入ったのはこうした「中華」の店だけれど、ご飯類を食べながら日増しに熱いスープ類が飲みたくて、その思いがつのる先にはラーメンがあった。別に日本のラーメンでなくていいから、熱い汁物がたっぷり飲みたい!
考えると、かつて若い頃、一ヶ月もフランスにいたときだって、日本食が恋しくなったことなど全然なかったから、わずか10日間程度でこんなに汁物、ラーメン類が食べたくなるとは、老人力の高まりは、日本回帰を伴うもののようで、トイレが近いことも含めて増坊も本当のオヤジになったものだと自分でもつくづくあきれ果てたしだいだ。
ラーメン食べたい~パリの「中華」及び世界の料理について・前 パリから帰ってきて間もなく一月が経つ。そろそろ旅行に関する話はいいかげん終わりにしたいと思っているのだが、あと数回だけ続けさせてもらいたい。
何回も書いたが、パリは人種のるつぼ、人種混在の都市だから、食材も含めてほぼ世界中の様々な料理が食べられる。外国料理でも街中で多く目立つのは、やはりなんと言っても中華系のテイクアウトを兼ねた店で、次いで中心部から離れるにつれてグリークサンドともドネルとも呼ばれる、グルグル回る棒に巻き付けた肉を焼きながら、あんこうの吊し切りよろしく焼けた部分から切り落としてパンに挟んで出すサンドイッチと、シシカバブのような串焼き専門のギリシャ?料理の店が増えていく。それに、パニーニと呼ばれるイタリア?のホットサンド専門の軽食の店。さらにクスクスなどのエジプト料理、トルコ料理。そしてアフリカ料理、インド料理、さらにアイリッシュ・パプのような店まである。
むろん日本料理、つまり寿司屋もかなりあちこちにあるのだが、さすがに増坊は今も昔も入ったことがない。中心部にある高級店は当然日本人の経営でちゃんとした職人もいるのだろうが、たいていの店が、メニューを見る限り高そうなのと、やきとりも寿司と並んで扱っていて、本当に日本人の店なのか極めて怪しいのである。店の名前もSUSHIKOとかOKINAWAと付いてたらヘンではないか。
それはともかく、これだけ各国の様々な料理がパリでは気軽に食べられるわけだが、それでも一つだけ増坊には不満がある。それは日本のようなラーメン専門店がないことだ。オペラ座近辺だかパリ中心部まで行けば日本人が経営しているラーメン店があるようなことをガイド本で読んだ記憶はあるが、街中には全然ない。そして「中華」の店にもそうした汁物はまずないのだ。
ラーメンが食べたい!冷たい石畳の街を毎日歩いて増坊はしだいに熱い湯気の立つラーメンを食べることでいつしか頭がいっぱいになっていった。
パリの異邦人・まとめとして 外国の街、特に知らない初めての街を歩くのは楽しい。今回、ホテルがあるサクレ・クールの丘を下って歩いて何度も通ったのは、スターリン・グラードからベルヴィルへ至る通りで、実はこの辺りは10数年前初めてフランスに来たとき泊めてもらった友人のアパートがあったところに近く、当時何度も来てたのだが、もはやすっかり記憶も褪せ、今一度異邦人の目で確かめられてやはり相変わらず面白い街だった。
パリの駅名や地名には、聖人をはじめとして、実在の人物の名前が付けられていることが多いと前にも書いた。その中でも白眉というか、極めつけは「スターリン・グラード」駅だろう。おそらく今現在、世界のどこを探してもたぶん本国ロシアでも、スターリンの名前を冠した地名、駅名はもはやないと思う。母国グルジアにはあるかもしれないが、今日ではヒトラーと並ぶ独裁者スターリンである。どうしてそれがここパリで地下鉄の駅名となっているのか由来はわからない。しかし、パリ解放のソ連の英雄であるわけだし、後世の評価変転はともかくも未だ記念に名前を残し変えないのもフランス人らしいずぼらさと歴史を大切にする国民性故か。
サクレ・クールの麓からこの辺りまで、黒人の住まいが多いのか、黒い人が多いのが特徴で、それが、スターリン・グラードからはアラブ人が増えて、イスラムの方位系の付いた礼拝用絨毯などを扱う店が続く。さらにそのままメトロに沿って(書き忘れたが、この辺りの地下鉄はパリでは珍しく地上を走っている)、ずんずん歩くと、ベルヴィルに出る。途中はタイ人、中国人が多く住むらしく中華街のような中国人向けのスーパーもある。そして、ベルヴィル。増坊はこの街が一番好きだ。黒人と中国人、アラブ人さらにユダヤ人の姿も見えて、コーランを並べた本屋の隣にユダヤのラビがかぶる帽子を売っている店がある。イスラムもユダヤ人も黒人もチャイニーズも渾然一体となって暮らしている、いろんな言語が飛び交う猥雑かつエキサイティングな人種の見本市というような、まるでブレードランナー的、近未来の都会なのである。見かけないのは日本人ぐらいだろうか。
今回、昔来たときになかったものに、アフリカ向け個室電話屋がある。説明が難しいが、テレクラのようなものではなく、簡単に仕切られた個室の中に電話があり、黒人は受付でカードを買い、それで母国へ電話する。どうやらネット回線か何かを利用しているらしく、KDDIのような正規の国際電話より格安でアフリカへかけられるのだ。ということはこれを利用している人は出稼ぎに来たアフリカ人であるわけで、母国に残した家族にかけているのだろう。昔はこんな商売はなかったのだから、それだけこの10年の間に出稼ぎ黒人が増えたことが推測される。ベルヴィルにもその黒人向け電話屋はいくつもあるのだけれど、残念ながら写真は撮れなかった。この町ではうかつにカメラを構えてパチパチ撮っていると、甘く危険な香りがするからだ。

★これは途中の再開発地区で撮った。バリも場末のスラム街は、今どんどん住民を立ち退かせて近代的集合住宅に立て替えが進んでいるようだ。
続続・パリの異邦人について パリの「異邦人」について書いている。しかし、これは正しくない。正式な移民として、フランスに来て、あるいはこの地で生まれ生活しているのならば、それはフランス人であるわけで、問題としたいのは、フランスという多民族社会の中における白人以外の人種についてだ。
今回、暴動が報じられた直後のことでもあり、パリの人種分布について注意深く観察して気がついた。黒人が相対的に増えたことは先に書いたが、では、彼らは実際どんな仕事に就いているかというと、所謂3K、つまり過酷な肉体労働に携わっている人を見る限り圧倒的に黒人、褐色の人が多かった。泊まったホテルのフロントの夜勤は常に黒人男性が交代で担当していたし、朝食の支度は太った黒人女性、部屋の掃除なども黒人がしていたし、工事現場でもスーパーのレジでも働いているのは黒い人が多かった。パリを見る限り、もはやツライ肉体労働は、生粋のフランス人はまずやらないようだ。
彼らは移民なのか、それとも出稼ぎなのかはわからない。ただ、言えることは、アフリカ大陸にはかつてフランスの植民地がかなりあって、今でもその地ではフランス語が公用語として使われているから、彼らはフランス語は当然母国語として堪能であり、フランスに来れば仕事を選ばなければすぐに働けるのである。モロッコやコンゴ、ギニア、マリ、セネガル、ルワンダ、チャドそれに公用語ではないがチュニジアやアルジェリアなど他の多くのフランス語圏の国から彼らはやってくるのだろう。
増坊は実は米軍基地の街で育っているから、米国の黒人については良く知っている。友だちにもいた。しかし、彼らアフリカン・アメリカンに比べるとパリの黒人は全然違う。ともかく黒い。本格的に黒い。考えてみれば、米国の有色系の人は、その地に来てからだいぶ何代も時間が経っているから、血が混ざって薄くなってしまっている。しかし、パリの彼らは、さすがに産直と言うべきか、アフリカから来て間もないから、まだオリジナルのままで、ギンギンに黒い黒人なのである。カンドー的ですらあった。ホテルの近く、サクレ・クール寺院を下った一角には、黒人女性専用のメイク用品や、付け毛などの専門店が連なる路地もあり、パリの新たな名物通りといった趣だった。

★写真は米軍横田基地内のアフリカ系米国人たち。
続・パリの異邦人について パリはシテ島を中心にして1区から20区まで、時計回りにぐるっとカタツムリの殻のように円を描くように区が連なっている。俗にガイドブックなどでは、パリはセーヌ河を挟んで右岸と左岸に分けられ、右岸はビジネス中心地で、左岸は大学を中心とした文化・芸術の街ということになっているが、それはせいぜい7区までの、パリのごくごく中心部だけの話で、右岸だろうが、左岸であろうが、セーヌ河から離れ、周縁部に向かうにつれて場末感が強まり、白人以外の人々、つまり有色人種の姿が多く目立つようになっていく。特に、パリ市の一番外側の区である18、19、20区辺りは、圧倒的に黒人やアラブ人それにアジア系もが目立ち、今回たまたま泊まったホテルが中心部から外れていたこともあったにすぎないが、いい勉強になった。おそらく、これは左岸でも同じことだろう。そして、この中心から離れるに連れて白人度が減り、有色度が増えていくというのは、パリ郊外へ行くと更に強まる。貧しい移民が住めるのは、家賃の高い市内より郊外の低家賃の住宅だからだ。
パリ近郊で多発していた暴動の話は、ちょうど増坊が出発する間際まで大きく海外報道番組で取り上げられていた。だから、心配してくれる友人も多く、実際のところ不安と関心もあった。幸い、今回滞在中にはそうした暴動を目にすることもなかったし、やたらとポリスの姿が街中で多く目についた程度で、一応治安は市内では安定していた。ただ、暴動の名残とおぼしき、生卵をぶつけられた跡のあるショーウインドウの店が大通りにはまだ少し残っていて、汚れた窓を掃除もせずにそのままほったらかしてあるのが、ずぼらなフランス人らしいと思った次第だ。それは単なる暴動に乗じたいたずらだったのかもしれないが。
しかし暴動を起こした若者たちとはどんな人々で、その理由はいったいどこにあるのだろうか。
パリの異邦人について ご存知のように今も昔もパリは世界各地からエトランゼたちが集う国際都市だ。増坊はニューヨークは行ったことがないけれど、「人種のるつぼ」とか「民族のミックスサラダ」なる言葉があるとしたら、それは間違いなくパリのことだと断言できる。
元からのフランス人、白人(ユダヤ系も他の欧州からの移民も含む)の他に、アラブ人、ベトナム人、中国人(タイ人も含む)、そして黒人と、白、黄、褐色、黒とが地域にもよるが渾然一体となっている。何故パリに他民族が多く集まるのか、その歴史や系譜については専門家に任せるとして、増坊がかつて10数年前に来たときと今回訪れて感じたことを書いていく。前回に比べて今回特に気がついたのは、ともかく黒人、有色人種が多くなったということだ。泊まったホテルの近辺に黒人街が多いこともあったと思うが。
前来たときは、アジア系が目立ち、かつて植民地にしていたベトナム系の人も多かったと感じた。勿論華僑は世界中にいるから、パリにも中国系はたくさんいるけれど、ベトナム人によく間違われ、声かけられた。ところが、今回、我々が親しみを覚えるアジア系は減って、場所にもよるが、圧倒的に黒い人が増えた。ある街角で数えてみたら通る人の半分近くが黒人だった。ニューヨークのハーレム地区もよもやである。
一度ある夕方、メトロで帰る方向を間違えて、バリ市内から郊外に向かう地下鉄に乗ったときなど、車内の中は、自分以外すべて黒い大きな人たちで満員で、白も黄色も一人も乗ってなく驚いたことがある。コンゴの首都キンシャサの地下鉄に乗っているような錯覚を覚えた。果たしてキンシャサに地下鉄が走ってるか知らないけれども。

★街角のポスターも歩く人も黒い人ばかり。