懐かしき「名前のない新聞」 今の時代は本でも雑誌でも音楽(CD)でも映画でもともかく沢山世に出ているから、とても全部をチェックすることはその道の評論家でさえも難しいであろう。まして素人では、いったい今何が良いものなのか、自分にとって必要なのか、情報の海に溺れて困惑するに違いない。次から次へと新しいものが出たり公開されて、次から次へと消えてなくなる。本、文庫などだと出たときに買っておかないとあっと言う間に姿を消して問い合わせてみると絶版でもう手に入らないなんてこともよくあることだ。
それは音楽の世界でも同じことで、CDもすぐ製造中止となって、かつて一時代を築いた人気ミュージシャンでも栄華に溺れ借金の山を作った挙句に版権詐欺で今は拘置所の中であり、人の世の変遷の早さにただ驚き呆れるばかりだ。
そしてさらに情報は今日、インターネットの普及により、個人でも気軽に日々発信できるわけで、人気ブロガーなる人たちが、そのブログで紹介したことで火がついたりするものも多々あるそうで、情報化時代の21世紀、何でもネットで検索すればたちどころに情報は手に入る。それは良いことだと思うが、反面、本当に大切な必要な情報を得ることはかえって難しくなったように思える。全体の量がカスも含めてやたら多すぎて本当に価値ある情報がなかなか得難く、求める側に届かないのである。
家の片付けの一環で、先日東側のベランダを壊したという報告をした。実はそこは元は温室として使っていて、親父が戸板で囲って、波板トタンで屋根を架し一応部屋のように使っていたのである。しかし、草木は枯れ、いつしかそこは倉庫のように不要な雑誌などのガラクタ置き場と化していて、しかも何年か前の夏に大きい雹が降って、屋根部分のビニールトタンにいくつも穴があいて、中のものは雨ざらしとなってしまっていた。どうせ不要な書類とかだろうと思い、そのままにずっとしてきたわけだが、今回改築工事を控えてそこを撤去することにして中身を確かめたら、ぐっしょり湿った昔の手紙類や自分で書いたもの、カタログやパンフ、あちこちでもらったチラシ類などと一緒に黒いバインダーが出てきた。
捨てるつもりで一応中身を確認したらば、それは「名前のない新聞」を綴じたもので、1973年の頃から77年頃のものがランダムに十数部挟んであったのだ。もちろん、雨に濡れて一部黒カビも生えていたが、まあ読めないこともないので今乾かしてある。自分でも驚いたし懐かしかった。
その新聞のことを知っている人は東京の人だけだと思う。それは市販されているものではなく、ライブハウスや若者向け喫茶店に行くと置いてあって誰でも自由に持ち帰れた。今で言うフリーペーパーのはしりだと今にして気がつく。といっても広告だけの情報誌ではなく、薄いけれどニューエイジ向けライフスタイルなどを説いたかなりぶっとんだ内容で音楽の情報も含めて十分読み応えのあるミニコミ新聞であった。
久しぶりにそれを読み返しているうちに、そう、昔の若者はこうしたものから情報を得ていたことを思い出した。《もう一回書きますね》
三木鶏郎を知ってますか 今の人、つまり自分より年下の団塊の世代Jrの人たちなどは、三木鶏郎と聞いても誰それ?という反応が返ってくるかもしれない。しかし、ラジオでの「日曜娯楽版」や「冗談音楽」は知らなくとも、CMソングの♪明るいナショナル~ とか、アニメの主題歌、♪ビューンと飛んでく鉄人28号~、などを作った人だと言えば、多少はピンとくるのではないか。しかし、彼の業績を一言で言い表すことは不可能だ。何しろその活動は多岐に渡り、多芸多才の天才的マルチプレーヤーであったからである。
ある世代にとって、特に自分より上の人たち~50歳過ぎの世代にとって、鶏郎の名は、絶対に忘れることの出来ない、思い出をたどると欠かすことの出来ない重要な位置にあるはずだ。
少なくとも増坊でさえ、自分という人間を構成している分子を探っていくと、ごくごく初期のところで鶏郎に出会う。少なくとも音楽のセンスやメロディラインなど音楽的感覚の何十パーセントかは三木鶏郎に負うところが大きい。なぜなら子供の頃、慣れ親しみ、常に口ずさんでいたCMソングのそのほとんどが彼の手によるものだったし、夢中になって観たアニメの主題歌もまた彼が大方作っていたのである。そんなことは幼児の頃は全く知らなかったのだが、これはもはや“刷り込み”効果として子守唄代わりに鶏メロによって育てられたと言っても良いだろう。
その鶏郎が没後10数年を経て近年また再評価され、あちこちで最近取上げられている。個人的には、もう二十年以上も前から勝手にマイブームとして、鶏郎、鶏郎と騒いでいたのだが、ようやく時代が追いついてきたという感がある。先日も生前の彼を知る方の講演会もあったし、これから実演による鶏メロ大会のようなものも企画されている。そこで、そもそも三木鶏郎とはいったい何なのか、その巨人の全貌について少しでも知ることを何回かづつに分けて書き綴ってみたいと思う。
山本コウタローと若林純夫~パックインミュージックの中で 若林純夫を語る上で、どうしても触れなくてはならない人がいる。山本コウタロー氏だ。
増坊は昔、実は彼のファンであり、彼個人のシングル盤も今だ何枚か持っているはずなのだが、正直なところそのことを公言するのは何か恥ずかしい気がする。どうもうまく説明できないのだが、彼に対する今の心象はあまり肯定できないものがどこかあるようで、それがシバや友部正人、高田渡が好きだというように胸を張って語れないところに繋がるようだ。
売れない仲間たちから抜け出て、ヒットもあり、司会等タレント的活動をしていたからか。いや、そうではない。だったらなぎらさんにも同じ思いを持つはずだが、なぎら健壱には、ずっと心底尊敬さえしているのだから、どうにも説明がつかない。
思うに、おそらく、彼の持つ独特の体臭、それはインテリ臭さというのだろうか、本業を離れたところの発言や行動が、何故か鼻につき、昔は感じなかった抵抗感となっているようなのだ。しかし、彼の「本業」とはいったい何なのだろう。歌い手としてはあまり聞かないし、最近では昔ほどタレントとしてテレビでも見ない。今、書くに当たってネットで検索してみたら、現在は白鴎大学教授とあって、ちょっと驚いた。さすが一橋大学卒、せいぜいが高卒止まりの他のフォークシンガーとは最初から毛並みが違う。
さて、そのコウタロー、ご存知のように、ソルティ・シュガーの1970年の大ヒット曲「走れ、コータロー」で、広く世に知られるようになるのだが、名前を冠した曲のわりには、当時は、このバンドでは主役ではなく、ほとんどその印象は残っていないと記憶する。彼はそのカレッジフォークバンドを解散後、ソロとなり、武蔵野タンポポ団に参加するのだが、増坊が深く知るようになるのは、深夜放送、パックインミュージックのパーソナリティとして、自らの放送を毎週担当するようになってからだ。
その山本コウタローパックは、土曜パックで、正確には金曜日の深夜1時からの2時間枠だった。それがパック一部で、3時からの二部は後に彼のパートナーとなる映画評論家の吉田真由美が担当していたことも思い出す。
今きちんと確認できないが、自分が聴いていた頃、たぶん1972年から75年ぐらいまでは、パックの一部は、火曜日が小島一慶、水曜日が愛川欣也、木曜日が吉田拓郎など人気フォークシンガー、金曜日が、ご存知那智&チャコ、土曜日がコウタローだったはずだ。
人間とは習慣性の動物だから、一度深夜放送を聴くライフスタイルというのか、その生活サイクルができてしまうと、夜型となってしまう。そもそものきっかけは、金曜日の那智チャコだったと思うが、いつの間にか毎晩、日替わりのパーソナリティのパックを何となく聴く習慣ができてしまった。
当時自分は中学生で、ベッド中で、タイマー付きのモノラルラジカセで、録音しつつほぼ毎晩、パックを聴いていた。そして、ついうっかり金曜日の第二部まで聴き続けてしまい林美雄を知ってしまったのだが、それはまた別の話で。
そのコウタローのパックで毎回彼の相方として、一緒に登場していたのが若林純夫だったのである。だから彼のややくぐもった話し声は今でもはっきりと覚えている。
名曲「雪の月光写真師」 逢いたくて逢わずにしまう人は沢山ある。
同時代に生きていたのだから、いつかはきっとどこかで会って話したり、直接話せなくても生のライブで近くで見たりと、その人と対面する機会はあったはずなのに、なぜか結局それはかなわないうちに亡くなられてしまいついにこちらの思いが果たせないままの人もいる。
何回かに分けてそうした心に残る懐かしい人の思い出を書いてみたい。
日本のフォークソングが好きな人は多いだろうが、若林純夫(わかばやしすみお)という名前を知っている人は、かなりのフォークソング通だろうし、それももう年配の方だと思う。60年代の終わりの頃から唄い始めて、吉祥寺界隈で、シバや高田渡らと親しくし、彼らは今はなき伝説的喫茶店「ぐゎらん堂」に集まって、「武蔵野タンポポ団」というジャグバンドを結成し、ライブ盤も含めて何枚かのレコードを残している。
若林さんは、そのバンドのメインボーカルであり、リーダーがいたのか知らないが、実質的進行役、フロントマンだった。しかし、渡や山本コータローたちに比べると、知名度はたぶんずっと低い。その一番の理由は、彼名義の個人アルバムが出ていないからだろう。それに、シバたち未だ現役の人も多い中で、いち早く音楽シーンから外れてしまい(どこか地方では地道に活動していたのかもしれないが)、その名を聞かなくなって久しかったからだ。
彼の演奏と唄は、武蔵野タンポポ団での仲間とのセッション的なものを除くと、1969年の京都フォークキャンプでのライブから数曲、それに1973年の大阪天王寺野音での春一番コンサートのライヴ盤の中で1曲しか残っていない(と思う)。
しかし、その73年の春一番で歌った「雪の月光写真師」という曲は、日本のフォークソングの歴史に残る隠れた名曲、一部でヒットした曲で、シングルカットはされていないと思うのだが、当時の深夜放送ではよく流れて、人気があった。まずはそれで彼の名前を最初に知ったのだと記憶する。
コードGからEmへと下がっていくシンプルな曲で、詞は人の手によるものだそうが、彼作曲の美しいメロディと印象的な歌詞、それにちょっとかすれたようなしみじみとした歌声は、若林純夫以外には誰も作り出せないロマンチックな音楽世界で、当時中高生だった自分はすぐにトリコになり、下手なギターで一生懸命コピーした。
今でもこの曲は自分にとって一番フェイバリットな曲であり、機会があれば生涯歌い続けていきたいと思っている。