今度こそ本格的風邪ひいたようで・・・。
毎度毎度まったくお恥ずかしいと言うか情けない。どうしてこう体力無しなのか自分でも呆れるが、昨日運転中から喉がいがらっぽく、背中も腰も痛かったのだが、夜中に汗びっしょりかいて起きて、寒気はするわ、鼻水は出るはと、喉も痛いし今度こそ本当に風邪をひいたようだ。熱はまだ大したことはないようだが、フラフラするし頭も少し痛い。今日は本の発送一冊だけなので、それだけ出してひたすらベッドの中で過ごすようにしよう。
一つ何かをしたり、出かけて人と会うと、翌日はたいがい寝込むはめとなる。まあ、昨日はかなり緊張しつつ運転したし、このところ人と会う用事も重なっていたし先の16日のイベント疲れが今頃出てきたのかなあとも思う。でもこれからが実はもっと大変なわけで、今またここで寝込むわけにはいかない。
でも今回の風邪はどうやら本物の風邪のようで、野口整体の、野口晴哉氏の名著「風邪の効用」(ちくま文庫)を寝ながら読むと、風邪とは決して悪い病気ではないどころか、自然の摂理としてむしろ歓迎してもよいもののようだ。帯に「風邪は自然の健康法である!」と記してあるぐらいだから、熱や痰を出すことで整体の考え方では溜まっていた毒素も排出されるのであろう。
だからむやみに薬で熱下げたり治そうとするのではなく、時間かけて無理せずに付き合っていくべきかと思う。しかし、やることも溜まっているし、寝てばかりはいられない。その兼ね合いと調節が難しい。何とか明日には鼻水すすりながらでも動けるようになりたいと思うのだが。

★増坊が布団の中から眺める室内風景。足元までギターと本の山が押し寄せている。そのうちギターについての話もしたいと思っている。ギターの数だけは藤村直樹氏に負けないのでは。
飯田橋から青梅まで本を乗せて長距離ドライブ 今日、24日は、久々に車出して本の引き取り作業がある。旧い友人である飯田橋に住む仏人一家が月末に引越しをするので、本の処分を頼まれた。先日一度下見に行ったのだが、大き目のダンボール箱に8箱はあるので、とても手持ちで電車では運べない。で、迷ったのだが、やはりウチから車を出して、甲州街道を走り新宿に出て外堀通りから飯田橋へ行くことにした。
問題は引き取った本をどこに置くかであるが、ウチは工事中だし、近くに借りている倉庫はもう満杯なので、どこにもスペースはもはやないが、大工のカワムラさんの作業場ならまだ空いているので、遠いがそこに運び込むことにした。ただ場所が青梅の山の中で、実はそこでは前に運んであったウチの衣類やらギターとか一昨年火事を出して全部燃えてしまったという因縁もある。まあ、二度もそんなことはないと信ずるが、先日建て直したその倉庫に行き、まだ残っている荷物があれば運んで来て良いと了解は得ているので、その飯田橋の本の箱、勝手に運び入れてしまおうと思う。なかなか工事始めてくれないので、こちらも強行手段である。
ただ、方向がおわかりの通り、東と西、まったくの逆であり、概算だとウチから飯田橋まで約50キロ~、その青梅の作業場までウチからだと20キロ~はありそうなので、おそらく往復すると100キロ以上走ることになるかもしれない。ちょっとツライなーというのが正直な気持ち。これがドライブ好きの方なら何でもない距離だろうが、普段家の近所しか走っていない車嫌いのドライバーにはやや荷の重いドライブなのである。慣れていない都心を走るのはかなり怖い。
無事戻れて一仕事終えてなお元気があれば追加報告したい。
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無事に帰って来れた。でも朝9時過ぎに家を出て、ろくに休憩もしなかったのに、全て終わらせて家に戻れたのは5時近かった。一日車で都心から多摩地区まで行ったりきたり走り回ったという次第だ。走行距離、約130キロ。やはり前科ある者としては車の運転は常に緊張してしまう。今度事故れば次は交通刑務所なのだ。今回は途中で国分寺の遺品整理を任せられている友人宅にも寄って、そこの本も積めるだけ積んだので、これで懸案の荷物は一気に運ぶことが出来た。だから満足もしたし、今日は結局移動だけで終わってしまったが、まあそんな日もあっても仕方ない。
ともかく今日も無事に終わった。何とか事故らずに終わって良かった。そう、すべてはここからなのである。全て次に続いていく。運んだ洋書をどう売り捌くかまた課題だが、全ては良いことと考えればきっとうまくいくだろう。生きていればきっとうまくいくはずだし何とかなるだろう。自分が自分を信じられなくなったらおしまいなのだ。まだこちら側、皆と同じところに自分はいる。今はただほっとしている。
中川五郎を読む。


一芸に秀でるという言葉がある。他の者に類のない優れた芸術的才能があるという意味だろうが、特にミュージシャンの中には、人格的にも私生活もハチャメチャで、一般常識もないどころか生きていくための基本的なことは何一つできないのに、ギターを弾かせれば超人的に上手く、まさに神が彼に与えた得意な能力だと驚かされる奴が多々いる。また、知能レベルは高くなくとも絵画の才能がずば抜けている人も多く世に存在するのは周知の事実で、行き着く先はアウトサイダーアートの世界になってしまうが、他の能力はダメであっても一芸だけは突出している人は決して少なくない。
そしてこの世には同時に、一芸どころか多芸多才で、マルチに芸術的才能を発揮する人たちもいる。一番有名なのはダ・ヴィンチであろうが、どのようなジャンルの芸術にも万能的に突出した才能があり、今日ではビートたけし氏もそうした仲間に加えても良いかと思う。彼らを見て、自分のように何一つ特別な才能がないどころか、基本が劣等で、人より優れた才能は何一つない者としてはせめて一芸でも何かあれば良いのにと嘆息する。そうした者から見ると、中川五郎という人もまさに多芸の才にあふれた方で、フォークシンガーという肩書きよりも、ブコウスキーなど洋書の翻訳家、U2や、ディラン、モリッシーなどミュージシャンの訳詩家、そして編集もこなし音楽評論家であり自ら小説も書く、本の人、物書きとしてのほうが高名かもしれない。
彼がどれほど多芸多才な人であるかは、かつて共にフォークリポート誌の編集に携わったあの早川義夫が、五郎ちゃんはマンガもうまいしあんなに何でもできる才能ある人は他にいないと大いに感心していたぐらいなのだから。
そこで16日を控え、ここはまがりなりにも本のブログだったのだから、彼の書いた小説本について二冊だけ取り上げてみた。1999年に出た「
渋谷公園通り」と
「ロメオ塾」だ。五郎さんに訊いたところ自らのことを記した自伝本はないとのことで、高石友也にそれがあるのか確認していないが、岡林にはやたらと何種類もの自伝本が存在することを思うとき、ちょっ不思議な気もする。まあ、ただこの二冊は、自伝ではないものの彼自身の当時の生活をモデルにした半ドキュメンタリー的小説であり、トータルに中川五郎という人物の半生を追うときに興味深く読むことができよう。
「渋谷~」のほうの帯には、こう記してある。「公園通り」がそう呼ばれるようになる少し前、売れないロック・ミュージシャンを休業し、フリーの音楽ライターになったぼくは、傾いた洋館(ピサ・ハウス)で仲間と共同生活をはじめた。
まだ若かった「渋谷」と「ぼく」の物語 とあり、一方「ロメオ塾」の帯には
ひょっとして、ブ・・・二枚目編集者・中澤三郎、颯爽と登場! ロメオ編集部――そこはさしずめ人生の学校、遊びの場であった とある。
この帯を読めばお分かりのように、半自伝的小説というのはあながち間違いでもないと思う。「渋谷」のほうが、1970年代を、そして「ロメオ」が1980年代を舞台に描いているという違いはあるものの、一時音楽のほうを離れていた彼が東京でどのような仕事をしどう暮らしていたのかフィクションながらも窺い知れるわけだ。
では、本としての評価なのだが、肩のこらない平易な文体ながら、音楽や本や映画についての薀蓄も盛り込まれ、なかなかスムーズに読ませてしまう。同好の、そして多少でも同業にあった者としては興味深く楽しく読めた。しかし、スノッブな毒味という点だけを問えば、伊丹十三や植草甚一に及ばないし、淡々としすぎてやや物足りなくも思えてしまう。やはり彼の持ち味は翻訳もののほうに発揮されるような気もする。
しかし、現在ネット上で公開されている彼のブログ「ナカガワゴロウの世界」を覗くと、これが実にすこぶる面白い。そこでは彼自身のライブ活動などの日常と彼が見聞きし考えたことについてつらつらと自由に書き綴ってあるだけなのだが、物書きが果たして一円にもならないのにこんなに沢山の文章をタダで世に公開して良いのかと思えるほど多彩なことが彼独特の視点で書き記されている。拙ブログの何十倍もの質量がそこにあり読む確かな価値がある。
結局のところ思ったのだが、自分もだが、世にはともかく書くという行為が好きで、常に書かねばいられない人種もまたいるのであろう。それは、注文があろうとなかろうと、書きたいことがあるから常にどこででも書く。売文以前に表現したいという気持ちがまず存在している。五郎さんはまさにそうした表現行為の人であり、うただけに収まらない溢れた部分が文章になるのか、文章にできない溢れたものがうたになるのかわからないが、とにもかくにも他の誰よりもそうした表現したい力が強いの人なんだとわかってきた。それこそが中川五郎という人の全人像だし、さらに付け加えれば、書いたものよりもまた当人のほうが数段面白い。彼の魅力とはライブを交えた直接の出会いにおいてこそ最大限に発揮されると断言する。
そのことを確かめるためにも16日両国センターへ来てください。まだたぶん席はあります。
おいで皆さん聞いてくれ 本読みの達人として、眼光紙背に徹すとか、行間を読むなどという言葉がある。しかし、当たり前のことだが、本に書かれていないこと、つまり文字になっていないことは現実にあったとしても「ない」ことであり、人がどれほど想像力を発揮しようと確証も裏づけもそこにないわけで、残念だが文字情報には限界がある。
これは以前、中島敦の小説に関して書いたことだから繰り返しとなるが、人類は互いの意思疎通のために言葉を編み出し、さらには伝達や記録のために文字をも考案した。そして古くは動物の骨や粘土板のようなものに文字を刻み、やがては紙、そして究極は本というものに情報を記すようになった。しかし、すべてのこと、例えば歴史書でもすべてあったことが記され残されているわけでは当然ない。時の為政者にとって都合の良い、文字にして記すことだけが記録され、他の記されなかったことは大事なことでも結果、なかったこととなっている。
そして今日、そうした記録や伝達の手段として、映像や録音物という他の多様なメディアも増え、全ての情報はデジタル的ファイル化され、CD-ROMのようなものやDVD、さらにはUSBメモリーのような簡易なカード式のものまで登場している。本や文書類等従来からの文字を印刷した紙ものの価値の凋落が叫ばれているが、どんなメディアと手段であろうとそこに記録されていないことはなかったことであるのに変わりはない。
何でこんなことを言うかというと、もう一昨年になるが、とある高齢の広告評論家の方と親しくお話する機会があり、戦後の闇市の話が出て、その人は今と当時と何が一番違うかという当方の問いに、臭いだと即答してくれた。彼は敗戦後の東京で、もう成人の年齢で生きていたわけだが、ともかく当時は焼け出されて住む場所どころか食べ物も着るものもなく、まさに着のみ着のまま皆ともかく何とか生きていたから、風呂に入ることも洗濯することもないわけで、誰もが浮浪者と同じようにシラミとフケ、垢にまみれてともかく臭かったと語ってくれた。今は皆清潔で街に臭いがないけれどあの戦後の焼け跡の何とも言えない臭いだけは今も忘れられないとしみじみ語ってくれて、はあ、そうなのか!と驚くような気持ちで新たな知識を得た。
それまで、自分は当時の記録フィルムやモノクロ写真などではその焼け跡の光景はよく知ってはいた。また本や小説では読み知ってはいた。しかし、当時を生きた人から直接お話を伺い、まず「臭い」が違うという証言を訊くまではそのことに全く気がつかなかった。それは想像力の問題もあろうが、映像にはそもそも臭いはなく、当時のことを記した記事、記録でもくさい臭いについてはわざわざ誰もふれていなかったのだ。
思うのだが、どれほど情報伝達のための手段が発達し、居ながらにして遠方の人と瞬時にコンタクトがとれるようになろうとも、人と人との間は文字情報よりも電話などの会話、さらにそれより確実なのは直接現実に会って話すことが大事ではないのか。そして過去のこと、例えばある時代があり過ぎたことについては、もし当事者や当時生きてそのときその場にいた人が健在ならばまずは会って話を聴くべきだろう。それを文字や映像として記録し保存していくのはまた次の段階、二次的な話であり、ともかくまずすべきは当事者、時代の証人から話を聴くことだ。そこで文字になっていないこと、語られていないことが語られ知ることができてこそ真に歴史体験は継承されていくのだと考える。
言葉にならならないこと、言葉に出来ないことこそが実は真に大切かつ重要なことなのかもしれない。16日はあの関西フォーク、熱いフォークソングムーブメントの渦中にいた中川五郎氏にあの時代のことを訊ねてみたい。ものの本にはない、文字になっていないことがきっと語られるに違いない。実はそのことこそがいちばん大事なこと、「うた」なのである。
夢の理想スペース・両国の私設図書館・眺花亭を訪問した。
筆者増坊はこのところライブの司会進行役を担当したり、厚顔にも人前に出て話したり臆面なく何かあれこれ企画したりしているが、元々は極めて内気な内向的性格であり、本来は人と会い人となにかをしたりするより、家に一人こもって、本を読んだり音楽を聴いたりする方を何より好む質であった。そして、今もじっさい、もしかなうことならば、自分の夢というか将来の理想の生活は、暖かい部屋の中で一人安楽椅子に腰掛け、大好きなミステリー小説を繰りながら、小粋なジャズを流しつつ誰にも会わずにのんびりと静かにひたすら過ごしたいということであった。
しかし、それはおそらくかなわぬ夢であり、常にいろいろ抱えているこの身では、生涯あれこれ慌しく心配事に思い煩いくよくよ悩みながら落ち着いてろくに本も読めず音楽も聴けないままある日、バタっと死んでしまうのだと思える。そうした優雅な悠々自適な本と音楽の日々は我々本好きの通人にとって共通の永遠の憧れであるが、果たして現実になりえるのだろうか。
だがこの世にはそんな理想の生活をいち早く実現した人もいる。先日のこと、両国に出向いた折、フォークロアセンターの国崎さんに連れられてその「部屋」へ行って来た。今回はその報告をしたい。
その本好き、読書人にとって夢のような理想スペースは、両国の隅田川を眼下に見下ろす旧いマンションの一室にあった。
小さな趣味の図書館・眺花亭である。主の渡辺さんが自らの蔵書を元に、私財をなげうちマンションの一室を図書館として改装し、現在、休日祭日月曜は休館だが、週に四日間、10時半から夕方5時半まで、入館料500円だけで誰でも利用できる図書館として開放しているのである。しかも美味しい珈琲か紅茶も出る。
元々本好き、それも大衆芸能や落語に関心が深く、また江戸、東京関連書に興味を持たれていた彼が、定年を前倒しにし退職し、昔から縁があったというその地、両国で、この図書館を開いてからまだ間もない。あまり宣伝もしていないし知られていないこともあり、今は客は少ないので現在ひたすら自ら買ってはおいたものの、まだ目を通してなかった本を日がな読んでいるとのことであった。まったく羨ましい。
そのびっしり並んだ本棚にはそうした芸能本や江戸東京の本以外にもセンスある選び抜かれた良書が数多く、まずそのことに感心させられた。静かに流れる音楽のセンスもまた素晴らしい。本の多くが増坊の好みと好きなジャンルと重なることも多く、窓から見える隅田川の流れる環境も含めて全てが垂涎ものであった。
渡辺さんが立派だと思えることは、長年買い求め集めてきた個人蔵書をこうして図書館として誰にでも廉価な入場料で公開していることだ。本好きは多くの場合、コレクター的に、自らの蔵書は門外不出として、友人にも貸さず、他人が触るのだって嫌がる人が多い。しかし、そんなに大事にしていた本だって、個人の場合は大概持ち主が死んでしまえば、本なんて理解と関心ない家人にとっては場所塞ぎのじゃまもの以外の何者でもなく、結局二束三文で処分され散逸してしまうし、ひどい場合は古紙回収にほとんど出されてしまう。
しかし、本とは個人で楽しみ慈しみ保管する以前に公共のものとして、世の中の多くの人にとって役立つべきもののはずであるし、そのために生まれたものだ。ならばその手段として、古本屋ならば、まず直截的に再度流通させるべく、売ることを目論むだろうし、それもまた本のためだと理解はしている。しかし、今自分も古本屋としてではなく、愛書家、蔵書家の立場で考えると、売るより以前にまずその手元の本を何か役立てることはできないかと考える。特に、その今ある蔵書がある主の傾向をもって集められ専門性、特殊性があればなおさらだ。
渡辺さんはそこで、その蔵書を世のために役立てようと、小さいながらも私設図書館を開くことを始めた。行って見て思ったが、まだ全体数は決して多くはないが、芸能関係本だけだって、町の公共図書館でこれだけ揃っているところは国会図書館はともかく、他にはないと思えるほどの量と質である。これならば、じっさいに図書館として、落語とかの調べものをしている人ならここに来て500円支払えば、十分資料として役に立つ。また、そうではなくても、本好きの方ならば、洒落た音楽をBGMにぼんやりと関心ある本のページを次々繰るのも至福のときであろう。この快感と幸福を主の渡辺さんだけに味わわせるのは実にもったいない。ぜひまた今度はゆっくり長居して、素晴らしい本の世界に深く耽溺したいものだと心に決めた。
実はこれは既に書いたか忘れたが、自分もやがて自宅が完成したら、小さいながらもブックカフェのようなことをやりたいとこのところ夢想していた。古本屋としてネット上の自店舗で、ジャンルを決めて本を集め並べていても、売れたらその本はなくなってしまう。しかも古本だから在庫はなかなかすぐにまた揃わない。ならば、逆に売らずに、棚に図書館のように並べて、来た客だけに手にとってもらい、特に希望する方には売るようにしたらどうかと考えていた。そのためには、週のうち曜日を決めて家を公開とし店番してブックカフェとする。そんな夢が今回、眺花亭を拝見して具体的に現実味をもって考えることができた。願わくば、東京の西と東であるが、本や音楽の好みも近しい渡辺さんとは手をとりあって今後とも協力しあっていけたらと思っている。
人生とは出会いであるが、彼とはこれもまたまず音楽で、先の隅田川フォークフェスにお越し頂き、岡君の浅草木馬亭で声をかけてもらい知己を得、そして次いで今回は本が取り持ってくれたというわけである。
※なお、眺花亭へご来館される方は、事前に必ず電話連絡 090-1213-9804 までお願いとのことです。
高石、高田渡らと唖蝉坊~そして岡大介 若者たちによる自作自演の音楽をフォークソングと呼ぶならば、それがいつどこで誰から起こったかは諸説あるだろうが、やはり60年代半ば、高石友也や岡林信康らが登場した関西フォークを祖とするのが今日では一般的であろう。もちろん、その以前に米国PPMらモダンフォークの影響を受けた、日本ではカレッジフォークと呼ばれた人たち、マイク真木、小室等らの活動も見落としてはならないと思えるが、実質的には、やはり高石、岡林のみならず高田渡、早川義夫、遠藤賢司ら東京勢をも網羅したURCの存在があって、日本のフォークは初めて商業的にも社会的にも認知されたと考える。
その初期のフォークシンガー、高石友也と高田渡に共通するのは、添田唖蝉坊という明治大正に活躍した演歌師であり、二人は形式は違えど唖蝉坊の唄をレパートリーにしていたことはこのブログの読者には説明不要と思う。そもそも高石友也は、労音の主催したフォークソングの同好会に、飛び入りで登場し「ノンキ節」をギターで歌ったのが記録に残るデビューであるし、高田渡に至っては、唖然坊の詞にカントリーなどあちらの曲をつけてかなりの数自らの持ち歌にしていることはご存知であろう。まあ、渡も高石も全てが自作自演というより、外国の原曲に、日本語詞を乗せて自作曲としているのがほとんどであるが。本当のシンガーソングライターは、岡林、遠賢らの登場を待つとして、何故にそこに唖蝉坊が出てくるのか。
渡氏の自伝本などによると、何を唄にすれば良いものかと迷っていた若き渡に、音楽評論家の三橋一夫氏が、唖蝉坊の歌集を示し教えたところ、渡はそれにウディ・ガスリーの曲などを当てはめてレパートリーにし出したとある。しかし、当時関西で日雇いとかラーメンの屋台を引いていた高石友也にその接点があったとは考えにくく、高石がどこから唖蝉坊を知り、レパートリーとしたのか未だ確認できないでいる。また、渡のその記述も三橋氏が健在であられるうちに氏に一度再確認してみないとまんま鵜呑みにはできないと思う。
ただ、当時のフォークソング運動の中では、フォークソングのフォークとはフォークロアのことであり、民芸、民謡なども含む、大衆、民衆の歌だという意識が強くあったから、猥歌、俗謡のようなものにもスポットを当てて、昔のものでも掘り返して歌いなおそうという動きもあって、当然のこと自由民権運動と結びついていた演歌師のうたった「演歌」に目が向いたことは想像に難くない。当時の高石はとても柔軟な考え方の人だったし、童謡から反戦歌まで緩急自在に唄いこなしていたから唖蝉坊もまた自家薬籠中のものとしていたのであろう。
また、全て作詞作曲の岡林にも「クソクラエ節」のような初期のライブでは大いに人気があったコミカルな風刺ソングが多くあり、そこにも唖蝉坊の影響は色濃く見られると思う。
いずれにせよ、日本のフォーク黎明期において、唖蝉坊が彼ら若きフォークシンガーに与えた影響は少ないものではないことは確かで、後年、高田渡は自著の中でこう書き記している。
三橋さんに教えてもらった添田唖蝉坊の演歌を読んだときには、目から鱗が落ちるような思いであった。「なるほど、こういうような言い方もあるんだな。アメリカのフォークソングが流行るもっと前の時代に、日本にはこんなすごい人がいたんだ」と、素直に感動した。 ―――高田渡著「バーボン・ストリート・ブルース」より。
そして21世紀の今日、かんから三線で、唖蝉坊の「あきらめ節」他を唄い継いでいる岡大介こそ、彼ら日本のフォークシンガーの正しく直系であり、真の後継者であることは間違いない。
江分利満氏の老いと死の記録 自分には文学や音楽の師匠と思える人が何人かいる。きちんと弟子にしてもらったわけではなく、勝手に私淑しているに過ぎないし、まして一度もきちんと挨拶さえ会ったことさえない人もいる。
音楽はさておき、文学では、やはり山口瞳先生と色川武大両氏にもっとも強く影響を受けた。どちらも無頼派であり、極端な社交家でもあり、かつ自らはまっとうではない異端であると恥じ入るような含羞の人でもあった。残念なことに二人とも既になく、見かけたことはあっても畏れ多くて口さえきいたことのない「弟子」にすぎないのだが、文体も考え方自体も今も自分は強く影響を受けていることを告白せずにはいられない。
その山口先生が亡くなられて気がつくと既に14年も経つ。せいぜいまだ10年そこらだと思って数えてみて愕然とした。月日の経つのは実に早い。もう今の人は、山口瞳という頑固な一言居士がいたことも知らないだろう。毎年成人の日には、新聞広告で、新成人の若者に向けて大人の立場から暖かい応援と励ましの辞を書いていたことも懐かしい。常識と愛情と節度と何事にも拘りを持ったヘンな人であった。
自分は、何かに行き詰ると本棚から彼が在りし日の日常を記した「男性自身」シリーズを一冊取り出してはどこでもかまわずページを繰る。先生の謦咳は確かにそこにあり、それが既にこの世にいない人だけに、彼の発するメッセージはこちらの心に深く染み入ってくる。人はこうして生きてこうして死んでいく、それが人生なのだと彼は常に教えてくれるのだ。
山口瞳が特異な作家だと思えるのは、彼はデビューしたときから大人であり、終生そのままの姿で歳をとり続け、生涯現役のままペンを置いたということだ。その一挙一動とその思考は、週間単位で雑誌に連載されていたから、今でもそれを纏めた本を読めば、彼がその時々何をして何を考えていたのかたちどころに理解できるのである。荷風の日記も意味あることかもしれないが、晩年に行くにつれほとんど雑記録しか記していないことを思うと、実に1963年から死の1995年まで毎週欠かさず連載し31年間も書き続けた「男性自身」シリーズこそ、文学史に残る稀有な個人記録ではないか。
山口瞳は、昭和38年「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞をとり、実質的作家生活をはじめた。よく知られているように、その江分利氏とは、彼自身のことであり、多少のフィクションもあるものの彼の日常を客観的に描いたもので限りなく私小説に近い。小説以前に随筆的要素も多々みられ、それは後に全面に出て、彼自身の肉声として男性自身シリーズへそのまま移行していくことになる。
興味深いのは、そのデビュー作の時点で、彼は既に中年的疲労感が色濃く出ていて、実に老成した感じがしていることだ。じっさいの話、書かれたのは35歳の頃なのに、不思議なぐらいそこには若さも華やかさも元気さもない。公園で遊ぶ息子の庄助を見る目は老人のものだし、愚痴とも溜息ともつかない諦観口調がユーモアに見え隠れしている。
彼は、大正末年生まれの戦中派として、戦争に借り出され、戦争によって青春時代を奪われた世代であるから、「青春」なんてものは最初から失われているかのようにも推察はできるが、今読み返すと違和感さえ思える。ただ、この若いときからの老成ぶりは生涯彼の持ち味となって、ご隠居的老人感覚を全面に出し社会と接していくようになるわけだ。若いときからの老人感覚の持ち主が、やがては本物の老人へと移行していく。そこがまた山口瞳という全身作家の魅力であり深みなのである。
江分利満氏から始まり、彼が生涯かけて書き続けたエッセイ、週刊新潮に連載された「男性自身」は、読みようによっては山口瞳という男の老いの記録でもある。リアルタイムで読んでいた読者は、彼がじょじょに歳と共に老いて気は萎えて体力は衰え病気がちになり、最後は入院しそのまま還らぬ人となるまでを看取ることとなったはずだ。じっさい、1963年12月から31年間、欠かさず毎週連載され1614回に及んだそのシリーズこそ、小説家となった彼の人生の記録そのものでもあった。
晩年近くには、前立腺肥大によって、小便の出が悪くなり、深夜に何度も起きることや尿閉になって、脂汗流して救急車を呼んだ話なども包み隠さず記されているし、まだ若いときにそれを読んだ自分にとっても興味深く、そして今にしてその感覚がだいぶ理解できるようにもなってきた。そしてそのことを隠さずに書き記してくれた山口先生に感謝するし、それこそが彼の小説なのだと今にして気がつく。
誰にでも起こりうる当たり前のことを平易な文章で面白おかしく描き、そこに真理の光を当てる。短いながらもこのシリーズは名人芸としか言いようがない。こうした短文エッセイを書かせて彼に優る人は向田邦子しかいないと思うが、年月を加味するとやはり山口瞳に軍配が上がろう。
もし許されるならば自分も彼に倣って、自らの老いを書き記していきたいと考えている。ただ、それがどこまで芸として文になり、読み物として読み手に面白く読んでもらえるかどうかであるが。
本と音楽の復権のためにも いろいろあって萎えていた気持ちも持ち直した。
人の死に接したりするたびに、(自分の)人生はどこまで続いていくんだろうと急に弱気になったり、また逆に、どうせ後10年か20年ぐらいでどうせ死んでしまうんだからもうどうでもいいやと思ったり、気持ちは揺れ動いてしまう。それは、やはり前向きではないし、その残りの人生の中でもまだやるべきこともあるのだと自分に言い聞かせている。
さて、何回かに渡って、音楽と映像とのこと、本と音楽、ラジオのことなどについて書いてきた。自分で書いてみて今回気がついて良かったと思ったことがある。
実は、本や古本のブログだと名乗りつつ、いつしか音楽やライブ、日本のフォークソングのことばかり書くようになってしまい、そのことにずっと負い目のような、看板に偽りアリといった申し訳ないような気持ちがあった。だからこのブログのタイトルを変える事も検討していた。
しかし、本にしろ音楽にせよ、同じジャンルのメディアであり、人の心に及ぼす方向では違いがないことに確信が持てたので、今はカテゴリーが同じなのだから音楽のことを書いたっていいじゃないかと思えるようになった。いや、何だって実は同じことであり、自分と言う人間が書くことや唄うこと、及び好きなことは全て共通していて考えてみれば人は生涯同じうたを唄っていくのであるならそこに偽りはないはずだ。
そう考えたら、本の方に重点が行くときもあるだろうし、音楽に偏るときもあるわけで、そのときどき興味の赴くまま自由に書いても良いのではないか。いずれにせよ、自分はまだ音楽など他の行為では表現できず、いやがおうにもこうして文字を連ねて書くことでしか自分を現せない。
そこにようやく少しづつ別な表現行為が入ってきて、人前で語ったり、ときに唄ったりも始めたりしてみたが、やはり荷が重いというか、自分としてはまだ思うことの半分もできてない有様で、失敗か成功は他者が決めるとしても自らは不満足と反省の思いばかりが残っている。しかし、それもまた許されればこれからもやるべき価値はあるかと思う。何故なら、こうして書くことや画像を載せることだけではどうしても表現や説明できないことも沢山あるからだ。特に音楽は、文章ではどうやってもまさに筆舌に尽くしがたいものだから、実際に聴いてもらうしかない。
自分にも他者に伝えたいことや自らを表現したいことがまだいろいろとある。それは結局は本のことと音楽のことに集約されよう。しかし、それをどう誰かに伝えるかとなると、そのやり方が難しい。単なるどうでもいい情報ならともかくも、一応はメッセージであり、“大事な大切なこと”だとこれでも自分では考えている。ただ、そのことをこと細かく文字を連ね、画像を付けてアップしてしまうと、読み手には伝わったかもしれないが、ある意味読み手の想像力さえ奪ってしまう。いや、イメージを固定させてしまう。そのことも心していかねばならないと思った。情報が多いことは決して良いことばかりではない。
結局、本当に大事なことは、バーチャルな追体験、仮想代行行為ではなく、実際の体験、実感だと信じている。そのためにもまずは想像する力を逞しく膨らませて、自らが現実に参加していくことだと思う。それそが真に人が生きるということだと考えるし、夢を夢だけでなく現実にしていくことなのだ。そうしないかぎり世界は真に変わらない。
子供の頃、大好きだったNHKの子供向け番組、ケペル先生(声:熊倉一雄)の教えが今も自分の中には生きている。曰く「何でも考え、何でも知って、何でもかんでもやってみよう」である。
ブルースに囚われた男クラプトンの半生
久々に本の話をしよう。
古本屋という職掌がら自伝本、評伝本の類は数多く手にしてついでに中身も読むことが多い。他者が他者について書いた評伝本はともかく、自らが自分の人生を振り返って書く自伝はそのたいがいが同じテイストで描かれている。つまり、いろいろ大変なこともあり、それなりに苦労したが成功者となった自分を誉めてやり、今後ともその道を極めていくぞ、というようなものだ。
結局は自らの自慢話となってしまうのは致し方ないことだが、それを手にするファンにとってはそれこそが醍醐味であり、支持して買うのだから面白くなくともそれはそれでかまわない。しかし成功者が成功するに至った経緯を書くのだから鼻持ちならない部分も常にあるし、個人的には失敗に学ぶことのほうが得るところが大とする法則が正しいならば、本来は敗残者、社会的脱落者の自伝のほうがよほど面白くタメになる。まあ、それは文学のほうの仕事だとして、文学ではない自伝本という世界に知る限りとてつもなく面白い本が登場した。孤高の名ギタリスト、クラプトンが自ら綴った自伝であり、昨今音楽界のみならずあちこちで取上げられている話題の本だ。全く彼の音楽を聴いたことの無い人でもその名前ぐらいは耳目にしたことはあるに違いない。
彼は、イギリス片田舎の貧しい労働者階級の家に、私生児として生まれ、複雑な家庭環境に育ち、独学でギターを学び、黒人ブルースに魅せられやがては数々の伝説的なバントで頭角を現していく。だが、栄光の影に女性関係に悩み苦しみ、アルコールとドラッグに溺れ、やがては幼い愛息を事故で失うという悲劇にも見舞われる。
そんな波乱の人生だからそれだけでも十分読み応えがあるわけだが、特筆すべきはその語り口で、自己卑下と言えるほど淡々と、自らの半生を冷静に韜晦気味に綴っていく。成功した有名人にしてはまずそのことが珍しい。そしてふと気がついた。これはまさにそのままブルースであり、この語り口はブルースの手法、テクニックなのである。
クラプトン、さすがブルースにその人生までも囚われた男の自伝はそのまんまブルースであったのだ。そのことに深く感心感嘆した。
戸建ての良し悪しを考えた
今朝は冷え込んだ。犬の散歩をしていたら水溜りにはうっすらと氷が張っていることに気がついた。畑には霜柱も立ち、東京でも氷点下前後になってきたようだ。落葉の晩秋から厳冬へと季節は一気に進んでいく。
我が家の落葉騒動はようやく終結した。まだ、ケヤキには色づいた枯葉が少しだけ残っているが、北風に吹かれて数日のうちに飛び散っていくと思う。
狭いながらも一戸建ての庭のある家に住んでいると、家とは、家の中だけではなく、庭も庭先の道までも管理化に置かねばならず、散った落葉掃きのみならず、木々が茂れば剪定し、雪が降れば雪掻きと、1年中何だかんだやることがあり忙しい。
今流行のガーデニング趣味の人ならば、手入れできる庭があるということは嬉しいことだろうが、ただでさえ多忙なこの身としては、もううんざり至極なわけで、いっそマンション暮らしとかのほうに憧れの気持ちさえ抱いている。家の内外のうち、外の部分だけにかける時間も相当なものとなるだろう。
マンションならば、そうした家の外側の部分はそもそもなく、共有の玄関、フロアや通路などは、管理会社が清掃してくれるだろうから、維持すべきは室内だけとなる。それならずいぶん楽だろう。
このところよく考えるのだが、人生とは社会性に他ならず、社会とは他者と共に生きるということだから、そもそも自分とは異なる他人と接することから起こる軋轢そのものが人生だといえなくもない。
庭付きの家が問題の原因なのではなくて、これが山中の山荘で、隣近所などなく本当の一軒家であれば、庭先を掃いたり木々の手入れなど自分はまず進んでしないだろう。だいいち隣家と密接して建っている家だから様々なトラブルが起こったりするわけで、無用なトラブルを避けるためにも庭先の手入れが欠かせないのである。
憧れのマンションでも住めば隣の住民から騒音の苦情が出たりするだろうし、漏水などで階下階上の住民とトラブルが起きたりもすることもあるかもしれない。まして、これが公団だったり公営の団地のようなところだと、庭はなくとも隣近所の住人付き合いが煩わしく、一斉清掃の日とか参加しないと自治会長からイヤミを言われたりと大変だと聞いている。
そんなとき、漱石先生の「草枕」の一節が頭をよぎる。とかくこの世は住みにくい・・・。確かに非人情の世界へ行けば、面倒なことはなくなるだろうが、それはそれでまた辛い人生となるに違いない。人生とは生きている限り、他者と付き合うことだから、様々なトラブルは当然起こるべくして起こるものだと達観して割り切って生きていくしかないのであるが・・・。