生と死をリアルに感じていく
洞爺湖サミットが始まって、増坊の住む町でも横田基地周辺はものすごい警備で、昨日夕は犬の散歩中もあちこちで検問とお巡りさんに遭遇し、職質は受けなかったもののその物々しい厳戒態勢に内心辟易するものがあったが、現在も容疑者の身としてはこれ以上踏み込んで批判めいたことは今書けないのである。
さて、「死」に関して毎度のことだけど思いつくままだらだら書いてきた。書くことはおおまかに頭にあっても実際に書き出すとだいぶ違うものになったり、思うようにかけなかったことは常だが、それでも書くことでぼんやりとしていた考えがはっきりとカタチになってきたり、頂いたコメントによって気づかされたり、さらに考えが深まることも多く、読者の皆さんにこの場で改めて感謝したい。
思うのだが、昨今こそ人の命が軽んじられている時代はないのではないか。新聞を開けば殺人事件が載っていない日はないし、様々な方法での集団自殺も然り、おまけに理解不能な無差別殺人、通り魔事件など凶悪事件が日を追うごとに増えているように感じる。過労死寸前の鬱から来る自殺者も増加の一途をたどっている。
その原因はいったいどこにあるのだろう。
秋葉原通り魔事件ならばその背景を探ると、劣悪な雇用条件の派遣社員という立場、親との関係、ネット社会での孤独、落ちこぼれ意識と歪んだ性格、秋葉原という町の歩行者天国、鋭利な特殊な刃物等など、数々の要因が浮かんでくる。短絡的には、彼の親たちの教育を責め、さらにはナイフの販売規制、歩行者天国の廃止まで求める意見さえ飛び出してくる。まるで歩行者天国さえなければ事件は発生しなかったというかのようだ。
宮崎勤事件のときも、マスコミを中心に、ホラービデオやエロ劇画の規制、さらには“おたく”バッシングまでトンチンカンな要因説が喧しかった。しかし、今ではそれらはまず無関係であり、すべての謎は宮崎死刑囚が心の闇の中に抱えたまま絞首刑となってしまった。
個人的には、派遣社員やワーキングプアの問題も準過労死的自殺の増加も、大きな社会的背景として、小泉・竹中構造改革路線の規制緩和による新自由主義の弊害があり、それが近年貧富の差や格差がさらに広がる主要因となっていることは間違いないと考えている。定職がないことも問題だが、働いても食えないからすべてに余裕がなく人心は荒んで、キレやすくなり他者を思いやるどころではない。激しい生存競争社会では負け組み、落ちこぼれにならないよう、人を蹴落としても勝ち残らなくてはならないのである。経済性=効率と利益が最優先なのだから人命も軽視されて当然であろう。
だから資本主義はダメなのだ、と以前の自分ならば結んでいた。今、自らが殺人という罪を犯す寸前まで死と向き合い、生の大切さを深く認識して思うことは、生きていることの有難さと死の厳粛さと重みを今の時代だからこそ人は深く学ばねばならないということだ。
当たり前のことだが、かつて戦中、戦後の時代、この国には殺人事件も自殺者もほとんどありえなかったと聞く。全体主義下の特高による厳戒態勢にあったということもあろうが、戦中は空襲の恐怖に怯え、戦後は食料難で日々生きていくのに必死でありとてもそんな“余裕”はなかったらしい。それが平和の時代となりやがて高度経済成長の時代となってくると様々な凶悪事件が多発していく。そして近年の不況下では自殺者も増えていく。殺人事件と自殺には経済=金が関係していることも読み取れるが、それよりもはっきりしているのは、生と死にリアルに向き合っているときは、人は殺人も自殺も考えないということではないだろうか。
今の時代、テレビでは二時間ワイドの殺人事件は日課であるし、ゲームでは敵を攻撃し倒して進んでいくものがほとんどで、「死」は日常となっている。が、それはあくまでもバーチャルな仮想のもので、核家族化が進んだ今日、身近な家族、祖父母の死でさえも立ち会うことが少ない。実際に若い世代こそ葬式に出たことがほとんどなく、「死」はリアルに実感を伴って迫ってこないものだ。
そして「生」自体もすべてに管理体制が進んだ今日、レールの上を決めたられた通りに生きている限り、そのリアルな実感はないだろう。その生の部分でレールから外れて生き辛く息詰まるような思いをしたときに、バーチャルな空間に救いを求めても返答も助けも帰ってこないのは当然なわけで、そこに仮想空間の町秋葉原で「死」を求めて自爆攻撃してしまうのである。だが、そのときだって彼にとってはゲームや映画の主人公になったような気持ちでいただろう。今頃ようやく加藤容疑者はリアルな「死」にふれてその事態の大きさに震撼しているのではないか。
そういう自分も5月18日、あの事故を起こすまでは生の実感もろくになく、まして死は漠然としたものでしかなかった。死が身近に迫ってきてはじめて生の価値、有り難みを知るというのも情けない話だが、平和な時代だからこそ戦争を語り継がねばならないように、普段から、そして若いときからリアルに生と死とは何か、どういうことなのかを学んでいくことこそが大切だと今は考えるようになった。
欧州だとそれは学校の場ではなく、教会の仕事であろうが、この国では江戸時代はともかく今のお寺や神社ではまずそれを教えてくれない。もちろん、学校教育の中で「道徳」として教えていく必要もあると思えるが、それよりも老人が手本を示し近隣から社会全体でリアルに死を学び、生を活性化させていくことが肝要ではないだろうか。そして自分ももっと何よりもリアルに生を体感したいと切に願っている。そのためにどうすべきか何か具体的な案が示せれば良いのだが今はここまでしか考えられない。ご意見頂けたらと願う。いずれにせよ、
まさに、メメント・モリ 死を想え なのである。