死後の世界、あの世はあるのだろうか
また雨もよいの曇り空。それでも曇っているせいか昨日までよりはだいぶ涼しい。今日は30度は超さないだろう。冷房のない生活はそれだけでホッとしている。
人は死んだらいったいどこへ行くのだろうか。このところ知人や友人の葬儀に参列してお棺の中の人を見送った後にいつも考えることはそのことだ。つまるところ、霊魂というものが存在するのか、あの世なるものがあるのかということに他ならない。
本を扱う商売柄、これまでにたぶん100冊を越える霊界や死後の世界について書かれた本を手にとって一通り目を通してみた。それらを通して見えてくることは、魂もあの世もそれがあると信ずる者には確かにあるだろうということだ。しかしその証拠も全くない。残念なことにこの世には死んだ人はいないからだ。臨死体験の本も含めて、死に損なった人はたくさんいる。そしてあの世らしきところを見てはきている。しかし、それは経験として死んだわけではなく幻覚かもしれない可能性も高く、あの世が存在する証拠にはならない。つまり本当に死んだ人、死者とは常に没交渉で、あの世からはこちらを見ているのかもしれないが、現世の我々はその存在さえも確認できやしない。死んだ者は常に沈黙を守っている。
古来から今日まで泰西の宗教はほとんどすべて死後のことにふれ、天国か極楽かは問わずともあの世があるとされている。つまり人は肉体のみならず別なもの=魂があると考えているのだ。
葬式で遺骸と対面していつも思うことだが、そこにその人は間違いなくいるけれど、それは抜け殻であり、まるでよくできた蝋人形のような感じがするのは自分だけだろうか。死人であるから生気がないのは当然だが、そこにあるのは肉体という物だけで、人の本質である何かはそこにもはやないという感覚に常にとらわれる。
それが「魂」なのかはわからない。もし、幽霊でもいいし、死んだ人とこの世で確かに再会でき、事実として確認できれば死後のこと、魂というものがあるのと思え安心できるが、残念なことに会えるのはいつも夢の中だけで、覚めてから改めて哀しみが湧き上がり枕を涙で濡らすことも多々ある。そして思うのは人は死んでどこに行くのか、今あの人はいったいどこにいるのだろうかだ。
結局、人は肉体だけの存在ではなく、魂が存在すると考えるのは、宗教だけでなく哲学的命題であろう。それを信じて存在を前提としてどう生きていくかということだ。死んだ者を見送る側としてはあの世があることは救いであるが、自分としては死んですべて無に帰するのも大いに魅力的である。だって、死んだのに現世と同じような世界があるとしたら、それではせっかく死んだ甲斐がないというか、うんざりするではないか。
いずれにせよ、あの世と現世は没交渉なのだけは確実なことだから、死後のことを今あれこれ悩み考えても仕方ない。あればあったら得かもしれないし面白く素晴らしいことだし、ないのもまたそれはそれで楽で素晴らしい。
日本人はそれでもお盆になると先祖の霊を弔い、彼らに感謝する習慣がある。確かに今自分が生きている事だって祖先の方々がいたからで、人は木の又から生まれてくるわけではない。そうした連綿と続いてきた生の営みこそが魂を受け継いでいくということなのかもしれない。