潜水服は蝶の夢を見る
生の実感、つまり生きていることの有難さというのは、人は普通の生活をしていてはなかなか感じることができない。残念なことだが、人はその自由が損なわれるような事態になったとき初めてそのことに思い至る。
例えば一度でも何か事故や病気で入院生活をしたことがある人は知ったはずだと思うが、病室内で長く自由を奪われ、退屈さをかこったとき、それまでの普通の日常生活自体が実はとてつもなく素晴らしく貴重なものだったと気がついただろう。食べたいものを食べ、行きたいところに行き、したいことは何でもできるという“当たり前のこと”ができた頃を憧れをもって思い出したに違いない。
しかし、入院時にはそう考えても、無事退院してしまえば、生活というものは基本的にはマンネリの極致でありルーティンワークそのものだから、また日々の日常の繰り返しに倦みうんざりして病室内のときの気持ちを忘れてしまう。それも仕方ないことだと思える。そう、昔からよく言われていることだが、人は失ってから初めてその大切さに気がつくのである。
実際、我々が生きているということは、目先の様々な面倒かつ瑣末なことに追われて、その処理だけに振り回されて、日々慌しく気がつけば一月が終わり、その繰り返しで1年なんてあっという間に過ぎていってしまう。ただただ何だか忙しく、生きている実感を味わうどころか、その日その日をうまくやり過ごすことで精一杯と言ってもよい。しかし、それで一生が終わってしまったとしたらその人は時間は使ったかもしれないが人生を生きていないのではないだろうか。
先日、巷で話題の映画「潜水服は蝶の夢を見る」を観てきた。おすぎが声高に薦める感動作かはともかくも、正直なところ今の自分には題材がかなり辛い部分もあったが、やはり観て良かったと思ったし、生と死についてまたいろいろ深く考えさせられた。もう一回続けて簡単に内容にふれたい。※それにしてもこの邦題は何とくだらないことか呆れ果ててしまう。原題の「潜水服と蝶」ではなぜいけなくて、どうして「服」が夢を見るなんて突拍子もないことを誰が考えつくのだろうか。