また7箱分本が増えて
今朝は、7時ごろから起きて、早めに犬の散歩を済ませ、車の中をカラにして父母を起こして早めに食事を済ませてから3人で、先日交通事故で急逝したOさんのマンションへ。
隣の市だが、多摩川の対岸なので、さほど遠くはなく予定の10時前には着いた。今日は、遺族である娘が都内から来て、部屋を引き払うため片付けをしていて、その手伝いを兼ねての遺品である本の引き取りである。想像してたより数はないが、それでもミカン箱ならぬ、その上のサイズの玉葱やレタスの箱で、7箱にびっしり本を詰めて持ち帰ってきた。
彼女の部屋が7階なので、エレベーターを使っても一箱づつ抱えて車のところまで降ろすのにかなり苦労した。また腰痛が再発しそうな感じがする。それらの本は、ウチに持ってくることなく、借りている倉庫へと全部運び入れたが、自分のところも片付かないのに、こうしてまた他所から本が来て、また増えていく。まあ、今ある全体量からすれば、7箱なんて誤差の範囲だからどうってことのない量だが。
結局、考えてみるとこんなことをずっと繰り返して、いつまでたっても肝心の自分ちは片付かないまま本ばかり増えていったのだと改めて思い至った。
こうして亡くなった人の住んでいた部屋を片付けに行くたびにいつも思うのだが、その人の生が終わると、たいてい残された家族が一切合財個人の持ち物、残したものを衣類から本まで一切合財ゴミとして処分してしまう。それしかなく仕方ないのもわかっているが、毎度そこに深い哀しみと無常感に苛まれてしまう。誰が言ったか、人は死んだらゴミになると。そしてまた同時に大量のゴミが出るのである。
特に今回のように、病気で寝たきりの人ではなく、歳はとっても元気にあちこち出歩き活動的だった人の死は、部屋には彼女のこれからの希望や夢もそっくりそのまま残っていて、胸が塞がれるような思いがして息苦しかった。本当に哀れであり、当人が一番残念というか心残りであったと思うが、残された一人娘にとっては、またこれからの生活もあり、哀しみに沈むよりも一日も早くすべて片付けて自分の人生を始めなくてはならない。
いつもこうした後片付けのあとは、二、三日鬱々とした気分になってしまうが、今回は、ゴミとして出される本を大方引き受けることが出来たし娘の手助けにもなったので、きっと故人も喜んでくれているだろうと自分を慰めることにした。古本屋に出来ることはこの程度のことしかない。
昼には、マンションを出て、帰りにみんなでラーメン屋で食事して、帰宅。あまりに疲れたので、一時間半ばかり横になったら楽になった。注文本一冊発送して、夕方、倉庫へと車で行って、今日の分の箱も含めて、借りてる部屋へ運び込んでこれを記す。今晩こそ頑張って自分の片付けを進めないと。