鈍感さと鋭敏さのバランス
二冊の本から、このところ考えたことをまとめてみた。適度に物事に動じないこと、考え込まないこと、気にやまないこと、つまり“鈍感”であることは人生を生き抜く上のヒントにはなりえると思う。
話は変わるが、増坊は近年また音楽に目覚めて、コンサートに通ったり、ミュージシャンの方と直接お話しする機会も多いのだが、やはり大切なのは「鈍感力」だと気がついた。
本来、音楽家やクリエーター、芸術全般に携わることをしている人は、鋭敏な感受性や、研ぎ澄まされた感覚が必須のはずだ。凡庸に何も思わず考えずでは作品は生まれてこない。
しかし、好きなフォークミュージシャンたちを見る限り、歌い続けている人は、内面は窺い知れないが、かなり鈍感力いっぱいのように感じられた。
というのは、音楽にもいろいろ種類があるが、作品を作り売って金を得る仕事とは別に、自らがギター1本で歌を唄うなりわいの場合、大小の会場を問わず、観客、聴衆と直接向き合うことが常であり、唄うことや演奏が好きだとしてもそれはかなりのプレッシャーとなるはずだからだ。
今はライブハウスでもどこの野音でも、規制が厳しく、あまり質の悪い観客は姿を消したが、昔――70年代前後の野外でのライブ盤など聴くと、野次と怒号がいっぱいで、そんな中ステージに立つミュージシャンはよほど肝が据わっていないととても務まらないと思い量った。下手だったり、あがってしまいもたもたおどおどしていると、野次られてステージから引き摺り下ろすことは日常的だったとも聞いた。
現在、知る限り最も観客が騒がしくやかましいコンサートは、大阪、服部緑地の野音で毎年行われる「祝・春一番」だと思うのだが、大人しくなったと言われても、今も酔漢が多く野次を飛ばし、ステージ前では勝手に踊る客も多く、ここで演奏するのにはかなりの度胸、つまり何事にも気にしない力=鈍感力こそが必要だと行くたびに強く感じる。
気の弱い人では関西ではステージには立てない。また、そのことはつまるところ、いとうたかおや加川良、友部正人、大塚まさじら、思いつくままに名を挙げた人たちも40年もそんなステージに立ち続けてうるさい観客と対峙してきたわけで、そのしたたかさ、強さ、動じなさこそが「うたうこと」、「唄い続けること」の必要条件というか、根幹を支えているのだと改めて考えた。
★昨年の春一番コンサート最終日。シバのステージで共演したいとうたかお、中川五郎ら。