葬式ラッシュの冬だった。
近年にない寒い冬もようやく去ったようで、今日などは陽射しも強いせいか表で作業していると汗ばんでくるほどで、上着を脱ぎ捨てて待ち焦がれた春の訪れをやっと実感できた。
しかし、寒さと人の死とは関係があるのか、私ごとだが、昨年暮れから父母の友人知人の葬式の報が相次いで、実に5人もの老人が亡くなっている。今回はそのことから考えたことを少し書く。
死んだのは、老いた父母の友人、知人や近所の人たちで、当然彼らの世代だから、年齢も70代後半から80代であり、別にいつ死んでもおかしくない歳なのだが、中には、正月に年賀状が遅れて届いたのに、早くもそれから一月も経たないうちに肺炎でポックリ逝った人もある。葬式に出たのは母親なのだが、彼女は相次ぐ葬式に喪服を仕舞う暇なく、今も出しっぱなしという有様なのである。
明日は我が身なのだが、その話は置いといて、亡くなった人たちとは、この町に越してきてからの約半世紀ほどの長きに渡る付き合いがあり、近年はお互い年老いて疎遠気味となってはいたが、何十年来の友人であり、中には親友と呼べるほど親しい関係にあった人もいた。
それほどの仲の人たちが次々と死んで、こんな年は初めてだとこぼしつつも、母は意外なほどあっけらかんとしているのである。息子として見ていて怪訝というか、不思議でならない。
葬式から帰ってきて、喪服を脱いでいるときは、ややしょんぼりしているようだが、着替えてしまうとすぐに元に戻って、くだらないテレビドラマを観てはケラケラと笑っている。いったいどういう神経なのだろうか。親友が死んだというのに。
そのことを指摘すると、「だって死んだ人はしょうがないじゃない。哀しんだって生き返るわけじゃないし、歳も歳なんだし・・・、それに今日は風もなくて暖かかったから良かったね」と訳のわからないことを言っている。※暖かくて助かったのは葬式に出た自分の都合だろうが!
これが年寄りという動物なのかと呆れつつも感心もするが、こうした無神経さについてもう少し掘り下げて考えてみたい。