前回の続きを少し・・・
地球の破滅=世界の終わりが間近いとしても、増坊がやらねばならないのは当面のこと、つまり家改築に向けてのガラクタの片付け、本類の移動など、何より先にまず「家のこと」である。
環境破壊で世界が終わろうと、続こうと、今日明日のことではないわけで、まずは今月末には大工さんと工事の日程も立てられるように、年内着工に向かって今はひたすら決死の覚悟で突き進むだけなのだ。
今のままではまず先に確実に起こる大震災でこのボロ家はぺっちゃんことなるはずだし、地震が起きずともパーキンソン&認知症の老父は、生きていても早晩のうちに寝たきりとなる。今のこの家では、訪問介護や医者を呼ぶにも狭くて不自由だし、あちこち段差がありすぎて、車椅子などで移動もできない。介護のためにも快適な老人世帯専用の設備の家にせねばならない。
というわけで、毎日遅々としながらも今必死で連日埃まみれでボロ家からモノをなくしていくために懸命の努力をしている。正直なところ、まだ壊せる糸口は見えてこない。だいぶ片付けて倉庫へ運んだので部屋も広く感じられるようになり視界はすっきりしてきたが。
さて、これだけ地球規模で環境問題が騒がれているのに、決して多くの人々の関心は高くないし、それほど切迫した地球の危機だという大問題にはなっていない。極地の氷がどんどん解けようが、毎年記録更新の異常な酷暑となろうが、環境問題は先の話としてまさにゴアの言うとおり「不都合な真実」には眼をつぶり目先のことだけに汲々としているのが現実だ。
人類のみならず、生物すべての世界の終わりが近づいているはずなのに、人々に切迫感も危機感もあまりないのが不思議に思える。逆に前世紀末、つまり一時の「世紀末」ブームの頃の方がそうした危機意識は高かった。
1995年は、1月に阪神大震災が起こり、3月には東京で地下鉄サリン事件という大事件が起こった。以降、危機管理やライフラインなどという言葉が登場し始め、世紀が変わるまで、人心の間にはこのままでは世界は終わるのではないか、このまま21世紀は無事に来るのかという漠然とした不安が存在していたように思える。
それが21世紀になってしまうと、急に何か仕切りなおしたような、厄払いしたような、あたかも新年になったときのような気分が漂い始め、夢にまで見た21世紀に浮かれていたら、2001年9月の同時多発テロが起こって、以後世界は突然テロとの戦い一色に染まり、今日に至っている。そして、さきの世紀末に感じていた「不安感」はすっかり影を潜めてしまい、それよりも目先のこと、つまり景気や格差や雇用、年金などの現実的な暮らしや社会保障の方に関心が向かい環境問題や地球のことは遠のいてしまった。
だが、地球温暖化はまさにもはや待ったなしの大問題なのである。
《この稿もう少し続きます》