普遍性に裏打ちされた無内容な感動作品
案の定、昨晩は良く眠れなかった。気のせいかも知れないが、このところ東京近辺では地震が多く、それも真夜中に眠っているとその揺れでいったん起こされてしまう。ばっと起き上がって様子をみるべきなのだろうが、寝ていた状態のまま布団の中でただひたすらじっと様子を窺っている。本当の大地震ならばきっとそのままボロ家は倒壊して増坊は圧死することだろう。
さて、映画の話、観た順に書いていく。
「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン」の原作本は実はまだ読んでいない。超ベストセラーだから間もなく嫌でも大量に古書として流れてくるとは思うが、古本の世界は当然タイムラグがあり、おそらく年末以降にならないと出回らないのではないか。図書館で借りてまで慌てて読むことはないと考えているうちに先に「映画」の方を観てしまったのである。だから、あらかじめ映画だけの感想だと断っておく。
正直に言うと、予想していたよりは面白く、いろんな意味で楽しめて案の定泣かされてしまった。が、今振り返ってストーリーなどを思い出してみるとその内容のなさに愕然とする。要するに原作者リリー・フランキー氏の自伝的体験、オカンこと彼の母親との思い出を現在と過去とを交互に絡めて振り返ったというだけの話で、そこに時折オトンも顔出しスパイス的役割を果たしていく。幼少時の北九州・小倉での日々から筑豊の炭鉱の町、そしてやがては上京しての東京での生活が子役から現在のオダギリ ジョー演ずるボクの独白で順を追って語られ、最後はオカンの死で物語は終わる。
そこにはなんのひねりも毒もなく、善人しか出てこないし、主人公の東京での貧乏時代もまるでリアルに伝わってこない。すべてが淡々と成功したボクの現在へと繋がるだけで何かが絶対的に足りない感じがする。何よりもオカンとボクとの関係がそこには一切の屈託もぶつかり合いもなく、始終親と喧嘩ばかりしている自分には何となく薄気味悪く理解しがたい。
この映画が面白く楽しめたのは、当然のことオカン役の樹木希林が圧倒的存在感があって問答無用で魅せてしまうのと、小林薫演ずる不良かつ朴訥なオトンが抜群に良いからだろう。さらに荒川良々や松たか子ら脇が超豪華多彩で、ほんのチョイ役でさえも一癖も二癖もある俳優が出てくるからそこも楽しめた。残念ながら若いときのオカン役の内田也哉子は大根すぎて藍より青くとならなかったのは仕方ないか。
だが、この映画の真の主役とはオカンではなく、オトンも含めた時代を超えた普遍的「懐かしさ」なのだと思える。それこそが人々を感動させ涙を誘うのだ。原作のリリー氏は、増坊よりいくつも若い1960年代半ばの生まれだから、増坊のように昭和30年代前半に生を受けてはいない。だのに、ここに描かれた炭鉱の町などはまるで映画「フラガール」の頃そのままだし、彼が過ごした80年代の学生生活も我々の頃とまるで変わらず懐かしく普遍的でさえある。その理由は結局、地方の、まして田舎というのは東京よりも数段時代が遅れていて、また大学生活というのも時を超えて常に愚かで情けないものであるからだろう。
この映画は誰にとっても懐かしく、そこにさらに糠床を抱えて東京に出てくる、常に我が息子のことしか頭にないアナクロな、現代では希少価値あるオカンがいるから、人はその普遍的懐かしさ故につい涙腺を刺激されてしまうのである。それはオトンも同じで、明治時代ならともかくも今日ではほぼ失われてしまったこの古めかしい両親自体が郷愁であり、さらにボクの今では珍しくなった「親孝行」も加わって世代を越えて共感を呼んだのであろう。どこにでもありそうなのに現代ではもはやもうありえない物語ゆえに大ヒットしたのである。
悪い映画ではないが、でも何か釈然としない。原作は読んでいないが、増坊の知るかつてのリリー氏はもっと毒のある舌鋒鋭いコラムニストであった。この映画だけで語るとしたらマザコン男の亡き母を偲ぶの記でしかないか。