“読解力”は衰える
当たり前のことだが、どんな本でも映画でも、ストーリー、つまり話の筋はあり、その映画なり本を観、読むということはそれを理解することに他ならない。そのための必須の条件は、まず主人公たち、登場人物を認識し、その人間関係と背景を理解することだ。ところがこれが存外難しく面倒くさい。
例えば、「フーテンの寅」シリーズのように、何作も同じ設定で、主人公たち登場人物も役者も変わらない物語ならば、そうしたストーリーを理解するための“初期設定”の努力はいらないが、大方の映画でも小説でも観客や読み手は、冒頭はその主人公たちの人間関係を掴むまで苦労する。
私ごとだが、今、齢八十を超す老父とそれよりは少し若い老母と暮らしていて気がつくのは、老化という事は、肉体だけではなく脳こそが顕著だということだ。我が家では、NHKの朝の連続ドラマを欠かさず見ているのだが、今やっている東北の旅館を舞台にした「細腕繁盛記」のパチモンみたいのは、好評で、親父も話を理解して観ているように見える。しかし、その前の、藤山直美主演の「いもたこなんきん」は、母親はともかく親父には理解不能であった。
その理由は簡単で、前作は、英語でいうところの「過去完了」的手法で、過去から過去へと時間が遡る回想シーンが多々挿入され、その同じ役も当然子役が演じたりするから、いったい誰が誰なのか、その話はどこに繋がるのか親父には皆目わからず、母親がいくら解説してもストーリーがよく掴めなかったのである。認知症の老人にとって、回想でも時間軸が異なる話がストーリーに盛り込まれるとその関係が理解できなくなるらしい。そういえば以前、親父は映画館でもカットバックシーンがある映画は「何だか話がよくわからなくてつまらん」と途中で出てきてしまった。
今やっている朝ドラは、そうした難しい手法は全くないから、主人公たちの人間関係さえ掴んでしまえば、あとは、物語は主人公を中心に前へ前へと進み、老人は毎朝ぼんやりただ見ているだけで話は展開していくから楽である。だから、老人には単純明快な時代劇が好まれるのかとはたと手を打った。
だが、友人の、やはりアルツハイマーを患っている親父の介護をしている男の話だと、その発症の発端は、いつも見ていた時代劇のストーリーが、よくわからないと言い出したことだそうで、水戸黄門的な勧善懲悪の、お決まりのワンパターンなストーリーでさえ、認知症傾向の老人には難解になっていくようだ。お宅の老人が今まで好んで観ていたドラマがつまらない、わからないと言い出したら要注意である。
こうした現状を背景に、高齢化時代をむかえて、テレビはよりわかりやすく、幼児化していくのは仕方ないことだが、今日すべての事象に対して、読み取る力が衰えているのは、何も老人たちだけではない。養老先生も「バカの壁」の中で今の東大生たちの考える力の衰えをさんざん嘆いているではないか。