「歴史」に書かれなかった事はなかったこと
何回かにわたって、映画から始まって、歴史における事実とは何か、真実とは何のためのものか考えてきた。最後に、一応、ここは古本のブログでもあったので、小説を一つ紹介したい。
中島敦の作品に「文字禍」という短編がある。「山月記」や「名人伝」らは、国語の教科書におそらく今でも載っているだろうから若い人でも読んだことはあるかもしれないが、この作品をご存知の方は少ないと思う。
余談だが、増坊は、もし日本の作家の中でたった一人だけ、最も優れた作家を挙げろと問われたら、迷うことなく、中島敦の名が思い浮かぶ。小説に限らず書かれた作品というのは、それがどんなに優れたものだとしても、常に時代に負うところが大であるから、漱石先生の作品だって今日読み継がれ評価されてはいるが、やはり題材も内容も書かれている思想そのものも古臭感漂い、そこに時代を強く感じてしまう。中でも文体というものはその時代と密接に関係しているから、その発表されたときは新らしく斬新であっても時間の経過と共に陳腐に古色を帯びてしまうのは仕方ないことだ。
しかし、一人中島敦の作品だけは、21世紀の今読んでもいささかも時代感がない。内容も文体もまさに時代を超えたところに彼の作品は存在している。海外の作家ならともかく日本においてこんな人は彼しかいないと思える。もし作家の価値を、書いた作品の数と、各作品の評価で割って、点数をつけたとすれば、活動年数も短く作品数も少ないこともあるが、中島以上に高い位置に存在する作家はまずいないだろう。まさに天才である。
例によって筆がすべり前置きが長くなった。「文字禍」は、中国の古典に材をとった作品の多い彼には珍しく、西洋、しかも古代のアッシリアを舞台に、まだ紙がなく、粘土板に文字が誕生した頃の人々の戸惑いを老学者の目を通して描いた斬新な短編である。
冒頭に、「文字の霊などといふものが、一体、あるものか、どうか」とあるように、文字が発明されたことにより、人々に何が起こったのか、その問題点、弊害を探るよう王に命じられた老博士が最後には文字の霊に復讐されてしまうという、今書かれたとしても興味深い、文字と言霊の関係について考察した、切れ味の鋭い名人芸的一編なのだが、その話の中で、こんな問答がある。
ある若い歴史家(宮廷の記録係)が、老博士に問いて曰く、「歴史とは何ぞや?」。
彼は一例として、先のバビロン王の最後について諸説があるのを挙げて、「自らを火に投じたことだけは確かだが、その死に方には色々な説がある。どれが正しいか一向わからない」。自分は王に命じられてそれを記録しなければならないのだが、歴史とはこれでいいのだろうかと尋ねた。
老博士は沈黙して答えないので、若い歴史家は質問を変えてこう問うた。
「歴史とは、昔、在った事柄をいふのであろうか? それとも粘土板の文字をいふのであらうか?」。
老博士答えて曰く、「歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである」。
書漏らしは? と歴史家が聞く。
書漏らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かつた事じゃ。《略》歴史とはな、この粘土板のことぢや。
今日、安倍政権が誕生してから、さまざまな形で、「歴史」の見直しが行われている。歴史教科書からも戦争中の事実認定には様々な異論があり、後世の歴史家に判断をゆだねるべきだと、戦時中に日本と日本軍がしたことに対しての記述が大幅に削除されてきている。中島敦の短編から言葉を借りるならば、まさしく、教科書に「書かれなかった事は、なかったこと」なのである。
このところ喧しい「歴史認識問題」とはつまるところ、都合の悪い歴史は無かったことにしたい人たちの願望が具現化したところが「問題」なのだろう。