読めればええやん、本なんやし。
正月七日、風邪は未だ治らず、咳が残り、とても苦しい思いをしている。連休なので病院はやってなく、急患扱いで駆け込むほど急を要する重症ではなく、寝ても起きても気分はすぐれず憂鬱でしんどいことには変わりない。
さて、前回の続き。本の実用的価値の「実用」とは、もちろん実用書や新書のことではない。文学書などの楽しみのために読むものであろうとも、要するに「読む」という本そのものの目的に叶うかということだ。
考えてみると本とは不思議なもので、ピカピカの帙入り豪華本であろうとも、表紙の取れたボロボロの古い文庫本であろうとも同じ内容の同じ本ならば読後感は全く変わらないものなのだ。だから本の状態――新しいとか古いとかサイズや装丁も含めて、書かれた内容以外のことは二義的なことで、本来は本の価値とは全く関係のないことであるはずだ。
しかし、モノでも何でも「付加価値」を付けるのは人の常であり、本に限らず人と同じものを人並みに持ちたいと願う反面、そこに独自の個体差、差異を求めてしまうのも人間なわけで、例えばオリジナル限定版であるとか、一般とは違う「価値」を求めてしまう傾向も強い。
本は中でも作家、著者の人気に大きく左右されるものだから、戦後の一時期のこと、人気作家の初版本は投機の対象になったことさえある。読むためにではなく、買っておいて高く売るためとしてだ。今は文学自体、本も全然売れないダメな時代だから初版本だろうが、著者サイン本だろうが村上春樹クラスの作家ならばともかく、全体的にまったく無価値となっていることは先にも述べた。
増坊自身は本は読めればどんな状態であろうとも一切関係ないと考えているのだが、商品としての流通を思うと、書き込みや線引きなどが多いとか、黒っぽく経年により焼けてしまったあまりのヘタレ本は売れないし、売ってもトラブルの種となることがネット商売の世界ではままあることなので――店頭販売なら購入者が納得の上、自己責任で買っていくものだから――結局、ブックオフなどで並ぶような綺麗な準新品状態の「古本」中心に扱うようにならざるえない。
ただ、本当に売りたい本とは、そんな実用的価値が高い本ではなく、もう一つ別な価値、例えば、歴史的、資料的価値、さらにはもっと何の役にも立たない面白さ、物珍しさなど、オルタナティブな価値ではないかと強く考えている。だってそっちの方がダンゼン面白いではないか。売り手が作り出した、見出した「価値」に買い手が同調し評価してくれることこそ本当の商売の醍醐味のはずなのだ。