ない方が自由という皮肉
最近、ふと思ったのだが、一番本を読むことの出来る仕事は実は勤め人なのではないだろうか。それも長距離通勤のサラリーマンとか。
というのも、例えば片道約一時間半かけて、郊外から都心に通う人は今では決して少なくなく、友人にもそんな人がいて、彼の通勤時間の使い方を聞いて思い至った。
例えばの話、仕事に往復で3時間かけて通う人は、朝の超ラッシュ時は難しいかもしれないが、乗り換えや歩く時間を除いたとしても毎日約2時間は、車内で本が読めるだろう。自分の場合、薄い本や最近の活字が大きく余白ばかりの本ならばその間に読み終えられる。ということは、週に5日の出社としても5冊、うまくすれば月に20冊程度読了できることになる。それは極端としても2日に一冊でも10冊である。これは大きい。
よく、忙しい人こそ時間の使い方が上手いと言われるが移動の時間を有意義に使えば、読書をはじめ自分のための時間を作ることができるのだ。それに比べ、自営というのか居職というべきか、家にずっといる仕事だと、すべてがダラダラとして区切りが緩慢になり、仕事とプライベートとの境が曖昧になっていく。となると自由のはずなのに、時間がなくなってしまう。
もちろん、これは人それぞれで、デキル人は、居職だろうがきちんと自らで管理して、オンとオフを切り換え、効率よく仕事を終え、楽しみとしての読書時間なども作ることができるはずだ。
ただ、時間だろうが空間だろうが、金だろうが、モノだろうがあればあるだけ自由になるわけではなく、半世紀近く生きてきた経験からすると、逆にない方が、あるいは制約がかなりある方が、人はその現実に対処し工夫しその中で有効に使うことが多いようなのだ。情けない話だが、自分はそうだと痛感している。
時間もそうならば空間や場所も同じことで、倉庫となった部屋の本の山を片付けつつ、つくづく自らの愚かさを呪った。場所があればあるだけ、「とりあえず」今は不要な本はそこに置いておく。気がつけばどんどん溜まって整理と収拾がつかなくなる。場所がなければ本は溜まらない。いやでも随時処分したり対応を迫られる。
まあ、こんなことは一般論ではなく、根本的にデキル人とダメな人との根元的差というか、処理能力の問題で、デキル人はどんな状況でもモノゴトを無駄なくきちんと有効に利用することが出来る。増坊はダメで愚図だからこのようにしか生きられないわけで、あげくに、あるよりもない方が良いとまで本末転倒なことを言う。だとしたら究極の自由とは、刑務所の中でしか得られないことになるのではないか。