ホモセクシャルについて考えた
今週の飯田橋ギンレイは、フランソワ・オゾン監督の『ぼくを葬る』と名匠アン・リー監督の話題作『ブロークバック・マウンテン』。この映画館は、似た傾向の作品を併せて上映する傾向があって、それについて可否別れるところだが、今回は見終えて納得した。男同士の同性愛映画二本立てだったのである。そこで今回は、“ホモ”について考えてみたい。
オゾン監督の方は、増坊は、こいつはとんだ食わせ物だと常に否定的に見ているので、今回も期待通りの?出来だったから、特筆することはないが、主人公の青年の美しさとその恋人も含めて、同性愛描写は、今どきのボーイズラブ好きの女性達には受ける要素があると思った。 一方、期待のアン・リー監督の方は、このところ注目の俳優たち、ジェイク・ギレンホール他が出ていて、期待に違わぬ出来だった。両作とも同性愛者の男性が主人公で、その人生をたんたんと描いていくわけなのだが、女性ならずとも気になるのは彼らのセックスだろう。男通しの愛、性交とはいかなるものか。
以前も書いたことだが、古本屋として、このところさんざんボーイズ・ラブ系のコミックを売ってきた。送るついでに中身も目を通すから、自然にその世界にも詳しくなる。だが、男として、その当事者側から見ると、そこに描かれた世界は、かなり違和感がある。もちろん、女性作家が描く男同士の愛だから、リアルでなく、そこに理想や美もあってしかるべきだ。本物をありのまま描いたのでは汚らしくなるだろうし、読み手は幻滅してしまうだろう。今回のオゾン監督の映画、ふとそうしたコミックスを思い出してしまった。少年の面影が残る美しい男たちのセックス。さすが女性向き映画で成り上がってきた監督だけある。あくまでも映像美の世界。つまり嘘くさい。
一方、『ブロークバック・マウンテン』ははるかにリアルだった。時代や環境設定は違うからでもあるが、ホモの苦しみ、迷いと葛藤が克明に描かれていて、こちらも美男同士の二人でも爽やかさとはほど遠い「男の世界」であり、ファッショナブルでない分、男女ともに観客は共感できるのではないだろうか。《もう一回続きますね。それにしても前回のこのブログ、乙武君のところのように炎上しないで良かった!我が身の無名に感謝しました》