自由と金の関係
とーとつだが、このところ「自由」について考えている。いや、自由と金についてだ。
この世の中には、金で買える自由というのもある。便利さとか代行業などを利用することとかだ。家事一つを見ても、電化製品の普及によりずいぶん楽に、時間がかからなくなって主婦は解放されたと言われて久しい。でも自由は、本来金で買えない、金と対立するものではないのか。
と思うのは、時間を売って働くことで金を得るよりも、金がないのは困るけど、自由がないのはもっと困るという人間だからだろうか。この世には、金持ちと貧乏人の対立する二極化があり、常識的には金持ちの方が善であり、貧乏は悪、そして成功は金持ちの部類、失敗は貧乏、人は金持ちに憧れ誰もが金持ちを目指すのだと言われている。
自分の場合、好きなことをやって金になれば良いと思って、いろんなことに手を出したが、それが「商売」となると、金が絡むと辛くなることが多い。いや、正直なところ好きなことは古本にせよ音楽にせよ、何かを書くことにせよ、元から金にはならない、「商売」とはほど遠いことであり、それで食おうとか真剣にならざるえなくなると辛くなるのだと思う。
だから最近では、古本商売も含めてすべて、趣味として楽しくやれればいいという心境だし、それで少しでも金が入れば幸甚であり、めっけもののような気持ちになってきた。いくばくかの金のために気をすり減らしたり、あくせくし残り少ない時間を取られたりするより、貧乏でも自分の好きな自由なことができる時間がある方がよっぽどいい。
そもそも金持ちの対極にあるのは、貧乏だとは考えていない。貧乏とは字のごとく貧しく乏しいという意味だとしたら、増坊は貧乏ではない。とりあえずボロ家はあり、人が見たらガラクタにしか見えないがモノは沢山何でも持っている。ないのは当座の金だけで、貧乏ではなく、金無し、金をもっていないだけだ。世間はそれを「貧乏」と呼ぶのだろうが。ともかく、金持ちに対しての金無し、それが自分の立場だと考えている。
昔、勤めていた頃は、80年代の初頭で月に30万以上稼いだこともあった。でもそれは、飲み食いや着るもの、時計や靴、オーディオなどに湯水のように使ってしまい、そのあと近年の十年間に至っては、浮浪者同然のような暮らしをしていた。実際ゴミ捨て場を漁っていたこともあるし、都心に出ても帰りの電車賃が無く、何十キロも一晩かかって歩いて帰ってきたこともある。
そんな暮らしが長かったから金にはほんとにシビアというのか、ケチくなった。外食はまずしないし、着るものもこの何ヶ月一枚も買っていない。食べ物だって、スーパーが閉まる間際に行って半額シールが貼られないと買わない。金を使うのは、古本や、中古レコードをたまに買うぐらいで、あとは電球の球とかプリンタのインクなどの本当に生活必需品しか買わない。だから、昔を思うと実に金を使わなくなったと自分でも感心する。今、使っている金は80年代の三分の一ほどだろうか。自分は今の人間ではないとさえ思っている。
そんな人間が今日、ようやくギンレイで話題の映画、「三丁目の夕日・オールウェイズ」を観てきた。増坊が生まれた頃、昭和30年代はじめの東京庶民の生活を描いたこの映画、昨年度の各賞を受賞し、好評の声が高い。モノはなくとも人々の心は満ち足りていた「あの頃」を描いて、当時を知る人には郷愁を、知らない世代には新鮮な憧れを与えているようだが、子供心にせよ、その時代をリアルタイムで生きた人間には違和感が残った。
このところ何故かこの国では昭和三十年代がブームである。レトロなモノにスポットが当たり、若者は新鮮に、年寄りは昔を懐かしみ好むのだろうが、天の邪鬼な自分としては昔から古いモノがすきだったくせに、時代が世を挙げてそれに向かうと逆に反発し、何か胡散臭く思ってしまう。第一、あの頃はそんな良い時代だったのだろうか。もし、タイムマシンで戻れるとしたらまっぴら御免だ。結局、人はモノが有り余っているからモノがなかった時代を懐かしみ、モノがなくなるとなくなったものを懐かしむ、無い物ねだりの動物なのだろう。
映画「三丁目の夕日」についてはいろいろ書きたいこともあるがバカ長くなったので後日、日を改めてまた書くつもりでいる。