京都、パリに似たインターナショナルな町
今回、京都を実際にあちこち自分の足で廻って気がついたことに、この町は、パリに似ている、ということがある。和の街並みと西洋の都市が似ているというのもヘンだが、そう感じたのだから仕方ない。
昔から、京都人とフランス人の気質は似ていると、ものの本によく書いてあった。それは、基本的にケチで、日々の生活は質素をモットーとしているが、使うべきところでは贅沢するとか、外面は良いが、他人には冷淡だとかそういうことらしい。
そこに住む人の気質は置いといて、まず街並みが似ている。という一番の理由は、すべての通りに名前があるということだ。フランスに限らず、西欧の大概の都市では、通りという通り、路地にまで名前が付いて、建物には番号が順にふってある。京都も今は事情が変わったらしいが、住所表記は同じようなやり方だったと聞く。まさしく碁盤の目のような町だから、何々通りを上る、下る、という表記だけで事足りたらしい。大阪では南北の通りは「筋」と呼ぶが、京都は、南北も東西もすべて「何々通り」だから、夜や曇りの日はどの通りにいるのか迷うが、慣れてくると、通りごとの色合いや違いが見えてきて、しだいに愛着が湧いてくる。何々町、何丁目何番という無味乾燥な番号の羅列より、そこに住む人々の顔が見えてくるような気がする。また、その通りの名も歴史的由来があるようなので、人はより親しみを覚えるのではないか。
そして、アテもなくそんな通りを歩いていると突然ひょいと様々な大小のお寺に出くわすというのも、パリでの教会との遭遇に似ている。本願寺は、パリで言えばノートルダム寺院に当たるし、清水寺はサクレ・クールか。中に一歩入った途端、日常生活から離れて、荘厳厳粛な気持ちになり癒されるというのも、教会も仏教の寺院も全く同じことだ。西欧では町中にそうした教会が無数にあり、京都ではお寺が無数にある。そんな町はめったにない。
そして、そこに住む人。京都にはパリのように外国からの移民はまずいないが、国際観光都市として、長年外国人、異邦者を町ぐるみで相手にしてきたせいか、京都人は外の人に対して、極めて場慣れしている。親切だが、個人主義的無関心もある。日本的ベタベタさがない。そこもまた国際都市パリに似ていると思った。
歴史と伝統に満ちた古都でありながら硬直せず常に自由闊達な気風が失われないのは、外の人と向き合い、常に受け入れ続けてきたからだろう。そこがまた京都の奥深い魅力なのである。