すべては高田渡の死から始まったのだった。
高田渡の死がきっかけとなり、大きく影響を受けたのは増坊だけではない。「春一番」の主宰者・福岡風太だってそうだった。実は、この春一番は、昨年度2005年の回、70年代から通算20回目で、終止符を打つことが決まっていたそうなのだ。つまり、今年、2006年はありえない話だった。それを覆したきっかけが高田渡の死だったのだと風太は言う。《以下『雲遊天下』「祝春一番2006」増刊号より》。
――なぜ今年も春一番をやることになったか?
風太「死んだからや、渡が。それだけや。渡が4月16日に死んで、そのときに俺は来年もやると決めたんや」。
そして、吉祥寺のスターパインズカフェで昨年11/18,19日に行われた「高田渡生誕会」が今年の春一のスタートとなったのだと言う。
風太(中川イサトさんからもっぺんちゃんと渡の追悼コンサートをやろうという話が昨年5月末か6月始めにあったときに)「俺は追悼は厭や、言うて、『高田渡生誕会』というタイトルをみんなで決めた。渡が生きとったら去年57やろ、この会を一回だけの追悼会ではなく、続けていくつもりでやりましょうよと。《略》そんな感じで、追悼じゃなくお祝いするもんを続けていこうやと。それが今年の春一のスタートなった」。※ゆえに、今年から頭に「祝」と冠することとなったのか。
そして、新宿ロフト30周年に「春二番」復活という話が来て、雑誌「アエラ」で日本のフォーク特集号が出たりと、他にもしだいに様々な流れが集まって、今年の「祝春一」へと向かっていったのだと風太。
風太「(春一って内容もメンツも一緒でしょ)って、それは当たり前やん、フジロックと違うんやで。春一は35年前と出演者変わってないよ。死んで減るか、新しいもんが入るかしかないわけや。ただ、出ている人は一緒でも歌はそのままじゃない、懐メロちゃうねんから。同じ歌でも変化していくし、歌詞だって変わる。カラオケとちゃうねんから。言いたいことがあるから歌ってるのが、俺らの音楽や。《略》そういう、胸に一物ある人たちをボクらは選んでいるわけで、《略》絆とか、信頼とかクッサい愛でもいいわ。それを信じながら、みんなそれぞれの旅をしてる。そのなかでバランスをとりながらやっていくのが春一や。《略》死ぬまで続けるやろな」。
酒浸りだった風太は高田渡が死んでからきっぱり酒をやめたそうで、久々に会って、さすがに外見は老いた感がしたが動きも頭もシャープなようで、これから第三期となる「春一番」、言葉通り、死ぬまで続けてもらいたい。増坊も生きている限り応援していくつもりだ。
★この風太や阿部ちゃんら主宰者のインタビューや、中川五郎ら出演ミュージシャンが寄稿している、会場だけで販売された『雲遊天下』誌増刊号。↑¥200.
東京在でも田舎者で、めったに都心の本屋に足を運ばない増坊は恥ずかしながらこの雑誌を寡聞にして知らなかったのだが、友部正人や田川律ら、日本のフォークシーンの中心にいる人たちが多く登場し、執筆している、実に「春一番」的雑誌だった。残念なことに今年の2月をもって現在休刊中なのだそうだが、今回、「読者応援団」が結成され、会員を募集し、刊行再開の動きがある。増坊ももちろん、刊行継続に賛同し会員となった。この雑誌のバックナンバーも購入したのだが、その中で、今年の春一には出なかったが、豊田勇造や、古川豪ら、昔から好きだった懐かしい人たちの名前を見、今を知ることができた。『雲遊天下』、この雑誌との出会いもまた高田渡の導きだった。本誌について詳しくはまたお知らせする。